目標1トン 農家、産地の励みに 小林 登さん(71) 前橋市小坂子町 掲載日:2007/4/10
「収繭1トンは意欲をかきたてる目標だった」と語る小林さん
県道沿いに建つ大きな養蚕型農家。築100年を超える家屋をしっかりとした柱が支えている。米麦や養蚕に適した赤城山南面に位置する前橋市小坂子町。かつて集落には養蚕農家が100戸以上あった。
「年間の収繭量1トンが目標だった。手間がかかる作業を省力化し、いかに収量を上げるか。特に手作業に頼る部分が多かった桑摘みの機械化に取り組んだ。斜面に対応できる桑取り機の開発は難題だった」
目標達成のため、産地振興に力を注ぐ県養蚕連や地元芳賀農協の指導を受け、勢多・前橋地区の研究会に参加したり、先進地を視察しながら収繭量を伸ばしていった。昭和50年代になって何度か目標を達成した。
「収繭量が1トン超えると、地区の組合でつくった『一トン会』に入れるんですよ。確かな目標は個々の農家と産地の意欲をかきたてるいい試みだった。回りの農家より100グラム余計に取ろうという思いで必死だった」
農家を継いで3代目。米麦との兼業で、周辺の農家と切磋琢磨(せっさたくま)して養蚕振興の一端を担ってきた。限られていく産地が気を吐いたが、輸入品の急増で繭価は低迷。県内の収繭量は減少の一途をたどった。
「世話のかかる生きものが相手。骨を折るわりに利益に結び付かない。やっている人は現状維持が精いっぱい。後継者もいなくなった。子供にも勧めなかったね。親が田畑を離れ労力が減り、辞めざるを得なかった」
桑園は徐々に野菜畑に変わっていく。小林さんも10年ほど前、養蚕に使っていた農具を手放した。現在、地区には養蚕を営む農家は数えるほどしかない。
「寂しいよね。群馬県は養蚕国だから、この産業にかかわった人や関連の学校を出た人は食べていけるって言われた時代だったのに、あっという間に火が消えてしまった。県の蚕糸課や県養蚕連といった組織もなくなった。でも1トンを目指していた当時は活気があったな」
夏から秋にかけて米をつくり、冬場は養蚕に明け暮れて流した汗が染み込んだ畑でホウレンソウを栽培する。体が続く限りは農業一筋、妻の昭子さん(70)との二人三脚が続く。