絹人往来

絹人往来

共同飼育 稚蚕増え整えた設備 関口 尚志さん(74) 太田市牛沢町 掲載日:2007/2/24


かつての飼育所に立つ関口さん
かつての飼育所に立つ関口さん

 沢野地区有数の大規模農家。養蚕業を営みながら広い飼育場で預かった蚕の種を手間のかかる二齢目まで近くの人と一緒に育てる仕事もした。
 「二齢目までの稚蚕飼育は温度や湿度管理が大事。寝る暇もないくらいちょくちょく様子を見なくてはいけなかった。それなら一カ所に集めて、農家が当番制で見張った方が効率がいい。この地区には、稚蚕を育てる共同飼育所がなく、大きな農家が場所や設備を提供して、共同飼育所の役目を果たした」
 養蚕全盛のころは、蚕を預けるのは近くの農家がほとんどだった。しかし、養蚕業がだんだん衰退してくると離れた地区の農家からも持ち込まれるようになり、忙しくなった。
 「養蚕農家が減って、ほかの地区の共同飼育所がうまく機能しなくなった。それで、沢野地区以外の農家も蚕を預けに来るようになった。多い時は1回につき、10軒くらいの農家から預かっていたよ」
 このため、設備を充実させた。自動的に温度と湿度を管理する電床育の装置を導入した。
 「当時のお金で30万円。サラリーマンの月給が数万円の時代であり、とても高価だった」
 稚蚕の面倒を見る人の確保も大変だった。遠方の農家の人では、通うのに苦労するため、近くの養蚕組合員の主婦をアルバイトとして雇った。
 電床育の装置によって、夜通しやっていた温度と湿度の管理はする必要がなくなった。1日数回の餌くれなら、家庭のある女性でもできた。
 「女性にとっては家計の足しになったし、妻にとっては話し相手が増えた。忙しかったけど、うまく回っていたと思う」
 しかし、ますます養蚕農家は減っていった。沢野地区は土地が良かったため、野菜に切り替えていく農家が増えた。また、他の地区では工場に働きに出る人がさらに増加した。ついに養蚕業から撤退した。
 「預ける人もいなくなったし、十分に共同飼育所の役目も果たしたと思った。時代の流れで、うちも野菜に切り替えた」
 現在、関口さんの「共同飼育所」は物置となり、トラクターと当時の電床育の装置が置かれている。

(太田支社 松下恭己)