絹人往来

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蚕業試験場 蚕の神経系統を研究 小池  渥さん(76) 沼田市西倉内町 掲載日:2007/05/18


長野県蚕業試験場時代の資料を広げる小池さん
長野県蚕業試験場時代の資料を広げる小池さん

 長野市出身で信州大学卒業後、長野県蚕業試験場松本支場に研究者として1年半勤務した。蚕業講習所で養蚕農家に解剖・生理学と英語を教えるかたわら、主に日本古来の蚕、天蚕と中国の蚕、柞蚕など野生種の飼育を担当した。
 「大学では蚕体生理学を専攻した。大学4年の時、蚕の幼虫の目の構造に関する研究を日本蚕糸学会で発表したのがきっかけで蚕業試験場に入った。もともと自然や昆虫が好きだったので、蚕の研究を仕事にできればと思っていた」
 普通の蚕と違って、天蚕、柞蚕はクヌギやナラの葉を主食にする。そのため当時の飼育は、自然林が豊富な同県の有明天柞蚕試験地で行っていた。
 「秋にあらかじめ竹かごの中に卵を産ませ、5月ごろにそれを1、2個ずつ和紙に付けたものをまたクヌギの枝に張り付ける。稚蚕は自然の中でしか育たないので、鳥やカエルに食べられないよう木の周囲に網を巡らせたり、仕事はたくさんあった」
 また、他の研究員と一緒に天蚕、柞蚕の毛のような部分「触受容器」の組織構造の研究を行った。触受容器の仕組みと神経系統のつくりを紹介したもので、内容は「長野県産業試験場報告」で紹介された。
 「顕微鏡などを使って触受容器を半分に切る時が1番大変で、何度も失敗した。場長に『実験費を使っても、結果が出ない』と言われた時もあった。しかし、発表したら国内外の学生が視察に来たので、最後には場長も喜んでいた」
 その後、恩師の紹介で1954年から利根農林高校(現利根実高)に生物教師として着任、群馬に移り住んだ。91年に武尊高校(現尾瀬高)校長で退職するまで、37年間にわたって教員生活を続けた。
 「最初は3年くらいしたら、蚕業試験場に戻るつもりだったが、途中で、教員になっても研究はできると思い直した。その後もヒメギフチョウ、マダラテントウなどを研究したが、原点はやはり蚕。今は蚕を見たこともない先生が多いが、観察や解剖など昆虫の研究であれほど良い材料はないでしょう」

(沼田支局 金子一男)