養蚕道具 児童の郷土学習に一役 金子 定夫さん(72) みどり市大間々町浅原 掲載日:2006/11/26
寄贈した養蚕道具を前に当時を語る金子さん
「七分かごの上にワラで編んだ薄いミナガを敷いて稚蚕を置く。大きくなったら網をかぶせミナガのフンを取り除いた。糸をはく状態になるまでこうして飼ったんだよ」
蚕に繭を作らせる「まぶし」を手に養蚕作業を振り返る。10年ほど前、母校の福岡中央小学校が地域の歴史を物語る物を探していたのに応え、保存していた養蚕道具を寄贈した。小学校の資料室に整理され、児童の郷土学習に一役買っている。
旧大間々町北部に位置する浅原地区はかつて、ほとんどの農家が養蚕に携わっていた。金子さん宅も春、夏―秋、晩秋の年3回飼育した。
「養蚕期は奥の十畳間が蚕室に替わるんだ。畳を上げて板の間にする。蚕が小さなときは葉を切って与えた。5月中旬にはカゴを部屋に何段にも差し込んだね」
暖かくしておかないと成長が遅いため、温度管理に細心の注意を払ったという。左右からカゴを引き抜いて、部屋の中央で桑の葉を与えていく。
「目張りをして外気が入らないようにする。木炭をおこして部屋に入れ、夜は寝ないで暖めた。まさに『おかいこさま』。人間は納戸や部屋の隅っこで寝ていたよ」
繭を作る状態になると蚕の首やのどが赤くなり餌を食べなくなる。糸をはき出す状態「ズー」になる。これを木鉢で集めて、ワラで作った「まぶし」に乗せる。そして、2階の暖かいところに置く。1週間程度で糸を吐き切りサナギになる。
「共同飼育所からは同じ稚蚕が来るけど、その家の空気の通り方、日当たり具合で生育に大きな差が出た。収入に直結するだけに真剣に育てた」
多くの農家は収繭する秋に支払いする「秋勘定」で生計を立てていたからだ。温度や湿度の管理をして育てても、生糸の相場で繭の価格が変動するため運にも左右された。
昭和30年代中ごろから同地区の養蚕は急速に衰退した。折からの好景気と小平川からの用水整備で、農家が重労働と価格低迷に見切りをつけたのだ。
「多くの農家が機屋になったね。ガチャマンと言われ、織ればいくらでも売れたからな」