絹人往来

絹人往来

蚕種販売 し烈だった地盤争奪戦 高橋 恭治さん(77) 伊勢崎市境島村 掲載日:2006/06/13


「島村蚕種」の株券を手に、販売担当だったころについて語る高橋さん
「島村蚕種」の株券を手に、販売担当だったころについて語る高橋さん

 日本三大蚕種産地の一つとして名をはせた旧境町島村1941年に結成された「島村蚕種協同組合」に54年からかかわり、販売を担当した。
 「個人でたね屋(蚕種業)をやっていた地元の46軒がまとまって組合をつくった。当時は封建的で世襲制だった。米麦中心の農業を営んでいたが、組合の株主だったおやじが亡くなり、その代わりに入った」
 父親の浦三郎さんの死を契機に足を踏み入れた蚕種業界。そこでは業者間のし烈な販売競争が待っていた。
 「いざこざが起きないよう業者間で不正をしない、地盤を荒らさないことを約束するほど。だけど、現実は種の地盤の取り合いは激しかった。毎晩養蚕農家を戸別訪問し、『うちにきそうだ』となると、それこそ総動員で攻勢をかけ『ぜひ、こっちの種がいい。力になって』という具合にね。そうこうして後ろを振り返ると、違うたね屋がいたりもした」
 販売する種は、1箱2万粒と決まっていた。しかし、たね屋によって1箱から取れる糸の量は違っていた。いかに量が取れる種を売るかが販売前線では重要だった。
 「いい種で多くの糸が取れれば金になって養蚕農家に喜ばれた。『瑞光銀白(ずいこうぎんぱく)』という品種の販売をしたことがあった。ところが、この品種は名人肌で、養蚕に精通した農家にはずばぬけていい成績が出たが、飼育がうまくいかないと必要以上に落ちた。島村蚕種として力を入れた品種だったが、なかなか浸透しなかった」
 組合は80年に「島村蚕種株式会社」に改組し、88年に解散。30数年にわたって務めた「蚕種営業マン」としての人生も幕を閉じた。
 「販売は戦い。『とれた、とれない』の世界。ぜんぜん動かないと思われた相手の地盤がこっちに動いた時はおもしろかった。一方で、どぎついやり方もあったし、農家に量が取れないのは種が悪いからとも言われ、しょっちゅう辞めたいと思った。それでも絶対的な信用を持った島村蚕種という会社の看板を背負い、島村蚕種の代表として現場にいる。これだけは忘れなかった」

(伊勢崎支局 宮崎秀貴)