絹人往来

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大島紬 母の贈り物、今も愛用 成田 敬止さん(80)  高崎市芝塚町 掲載日:2008/10/17


「この大島紬を着ると母を思い出す」と話す成田さん
「この大島紬を着ると母を思い出す」と話す成田さん

 光沢のある焦げ茶色の大島紬(つむぎ)。シルクの質感が上品さを醸し出す。「55年前、養蚕をしていた母が、上等な出荷用の繭を機屋で着物にしてくれた。今でも袖を通すたびに亡くなった母の顔を思い出す」
 1928年、岩島村(現東吾妻町)の裕福な養蚕農家に生まれた。いわゆる「百貫蚕」の農家で、全盛期は年間の収繭量が1トン近かった。
 「9人きょうだいの末っ子で、親や兄、姉にはかわいがられた。父が早く亡くなり、跡を継いだ長兄の手伝いで10歳のころには畑に出て農作業を手伝った。早朝、収穫した桑をリヤカーに積んで、桑倉に運ぶのが仕事。勉強よりも楽しかった」
 17歳で海軍飛行予科練習生に志願、熊本県に行き、特攻機を操縦する訓練を受けた。「爆薬とともに敵艦船に突っ込む役目。当時は、死ぬことも覚悟していた」
 だが、訓練中のけがで帰京治療を命じられ、故郷に戻って終戦を迎えた。戦後は中之条農学校の2年生に編入。卒業後は高崎の大蔵省専売局に就職し、原料の調達で全国を飛び回った。
 「25歳の正月。母からシルクの大島紬の着物と反物をもらった。戦後間もない物資が不足している時代。絹はとても高価だった。末っ子だったから、母には大人になっても特別かわいがられた」
 反物はモダンな洋服にしてダンスホールに着ていくなど長年愛用した。しかし、「大島紬は1度も袖を通さないまま質屋に持って行った。『5000円借りたい』と言うと、ポンと1万円を貸してくれた。月給が1万円だったころなので、そんなに高価なのかと驚いた。流すわけにはいかないと、次の給料をもらったらすぐに引き取りに行った」。
 趣味で始めた油絵は天賦(てんぷ)の才能で、37歳の時に描いた「馬」は、県展で前橋市教育長賞を受賞した。「農作業に必要なので、実家は2頭の馬を飼っていた。子供のころよく乗っていたので、馬にはとても愛着がある」。その後も展覧会に馬をモチーフにした数多くの作品を出品、入選作も多い。
 自宅の40畳のアトリエ。正面の1番目立つ所には、たくさんの馬が描かれた「群れ」が飾られている。今年の創元展に出品した100号の大作。少年時代に乗った愛馬は、創作活動に大きな影響を与えた。
 「大島紬も馬も、少年、青年時代の古き良き思い出。いつまでも大切にしていきたい」

(高崎支社 萩原武史)