絹人往来

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枠屋 職人の技銘仙支える 内藤 一雄さん(76) 伊勢崎市豊城町 掲載日:2006/12/7


父、国治さんが作り、内藤さんが修理した整経機
父、国治さんが作り、内藤さんが修理した整経機

 「銘仙の産地、伊勢崎では手織り機を『はたし』と呼んだ。はたしや糸を巻く管巻き機、糸を紡ぐ座繰りや経糸(たていと)をそろえる整経機など、はたしにかかわるすべての道具を作った職人を枠屋と呼んだ。座繰りの糸を巻く枠から名付けられたのではないか。昔は枠をたくさん作ったんだろう」
 腕のいい枠屋として鳴らした内藤さんは「枠屋」という名称の由来をこう推測する。
 父、国治さんも枠屋だった。昔ながらの職人の世界。仕事は見よう見まねで覚えた。うまくできなければげんこつが飛んできた。
 「初めて自分で作ったはたしを納めたのは終戦直後の1946年、16歳の時だった。空襲に遭わないように移り住んだ前橋市西大室町から伊勢崎の豊受まで、父親と二人で牛に引かせた荷車に載せて納めに行った。当時は納めるのも一苦労だった」
 はたしは県内を中心に埼玉や茨城、山梨、遠くは九州の福岡などにも納めた。妻、ちか子さん(69)と行って二人で組み立てた。
 新品のはたし作りばかりでなく、修理も手掛けた。
 「経糸の間に緯糸(よこいと)をくぐらせる杼(ひ)が通る杼みち。硬い材質のサクラを使っているが、長年使う間に削られて凸凹になってしまった。かんなで削ってもう一度平らにして杼がスムーズに動くようにした。はたしだけでなく座繰りの修理もした」
 11年前、65歳の時に現役を引退した。最後に作ったはたしは県立日本絹の里(高崎市金古町)にある。
 「くぎを一本も使わずにほぞとほぞ穴で組み立ててあるので、冷暖房のある部屋でも狂いが出ないと言われている。私が作ったことを示すシールが張ってあるので、『この機を作ってくれませんか』と連絡してくる人もいた。職人の誇りを感じる時だった」
 数多く作ったはたしのうち2台が海を渡った。中米のコスタリカにあるはずだ。
 「どこで聞いたのかコスタリカに移住した人が帰国した際に訪ねてきた。はたしを2台持ち帰ったけど、あなたの技術があればコスタリカで十分やっていけると言われた。向こうで一緒に仕事をしましょう。来てくれませんかと誘われたこともあった」
 コスタリカに行って、国治さん仕込みの腕を思う存分振るうことはなかった。だが、はたしは今も現役で布を織り続けているように思える。

(伊勢崎支局 田中茂)