絹人往来

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繭番付 「努力の証し」思い新た 堀込 栄一さん(78) 伊勢崎市境小此木 掲載日:2006/11/28


「剛志村繭生産番付」を手にする堀込さん
「剛志村繭生産番付」を手にする堀込さん

 地元の公民館で開かれた区民文化祭「小此木の歴史と文化」。住民が持ち寄った数多くの貴重な歴史資料の中に「剛志村繭生産番付 昭和14年度」を見つけた。横綱は堀込林平。祖父だった。
 「区民文化祭で番付が展示されているとは思わなかったので驚いた。自分のうちの番付はなくなってしまった。懐かしさが込み上げ、祖父の努力にあらためて敬意を払った」
 番付によると、旧剛志村の全世帯数は920戸で、このうち529戸が養蚕農家。「日本三大蚕種産地」として知られる境島村と隣接しており、養蚕が盛んな地域だった。
 「幼少のころから、祖父や父親から『蚕(かいこ)は生活のもと』といつも言われた。一年のうちで蚕の最盛期には小学校が『お蚕休み』となり手伝いをした。養蚕が始まると、家族がピリピリして大変だった。怒られないよう一生懸命やった」
 桑の葉を蚕に与える手伝いをした。特に天候が気がかりで、雨などでぬれた葉を与えると、蚕が病気になってしまうからだ。乾いた葉をやることに神経を使ったという。
 「自宅の蚕室などで蚕を飼い、繭ができると、袋に入れてリヤカーに積んだ。それを牛に引かせ、祖父や父親とともに出荷しに行った。出荷場で養蚕農家が互いの繭の出来栄えを批評し合い、それが刺激になった。『次はもっと多く、良い繭を持って行こう』とね」
 高校卒業後、農家の長男として当たり前のように養蚕農家を継ぎ、25歳で妻の泰子さん(77)と結婚。その翌年には父親の一雄さんが県養蚕経営改善大共進会の多収繭競技で「極めて優秀な成績を収めた」として知事表彰を受けた。
 「養蚕専門として祖父と父親とともに親子三代で蚕に熱中していた。父親の表彰は多くの人に認められた証しでうれしかった」
 養蚕一筋の農業も昭和40年代には野菜栽培に転換。現在もゴボウやホウレンソウ、長ネギなどを生産する。「祖父や父親の後ろ姿を見てなんとか一人前になった。2人から、努力することを学んだ」と、農作業に汗を流す毎日を送る。

(伊勢崎支局 宮崎秀貴)