絹人往来

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館林の紬 下職守り生産継続を 小川 進さん(77) 邑楽町中野 掲載日:2008/03/18


下職のネットワークを守ることが大切と話す小川さん
下職のネットワークを守ることが
大切と話す小川さん

 毎年3月に館林市内で開催される新作品求評会は、館林織物連合協同組合の加盟業者が、新作を持ち寄りPRする場。今年も3日に開かれ、色とりどりの反物とともに、エプロンや婦人物スーツ、ワイシャツ、アクセサリーなど、数多くの製品が並んだ。
 「ひと昔前からのことだが、反物のままでは売れない。こうした2次製品をどんどん提案していかないといけない。館林の綿織物だけじゃない。桐生の絹だって同じ」。試行錯誤する織物業者の苦労を代弁する。
 館林高校を卒業した1950年、館林市内の中野絣(がすり)織物協同組合の事務局に就職。翌年、紬(つむぎ)を扱う館林織物協同組合など3組合と合併、現在の連合協同組合となった。以来、専務理事で退職する89年まで、同組合に籍を置き、地域の織物の変遷を見守ってきた。
 父親は小中学校の教師だったが、祖父が中野絣の機屋を営んでいたという。「機屋は大正時代にやめたようで、織物は浮き沈みが激しいといった話とともに何度か聞かされた。父親が手堅い教員になったのも、祖父の苦労を目にしていたからかも知れない」
 就職した当時は繊維類の統制が解除され、「布地であれば、何でも飛ぶように売れた」。館林の織物は紬を中心に右肩上がりに成長、60年代には寝る間もないほどの忙しさを経験した。「接待で連日の酒宴。酒の飲み方は機屋さんに習ったようなもの」と笑う。
 活況は10年ほど続いたが、浴衣生地の中野絣が75年ごろに消えた。「服飾の変化もあるが、農閑期に賃機(ちんばた)を担っていた織り手の農家が減り、染め屋などの下職(したしょく)も減って、生産の仕組みが壊れてしまったことが大きい」
 一方、紬の機屋は、その数を大きく減らしたものの、糸の形状や染めを変えたり、反物の織り幅を洋装の広幅にするなど工夫を重ね、生き残ってきた。80年代になって2次製品づくりが始まると、服地という枠も取り払い、アクセサリーやバッグまで手を広げた。
 「織物は絹も綿も1業者ではできない。各工程を担う下職のネットワークを守らないと、中野絣のように簡単に消えてしまう。何であれ作り続けることが大切だ」

(館林支局 坂西恭輔)