絹人往来

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買い継ぎ 提案のコートがヒット 蓼沼 敏夫さん(63) 桐生市小梅町 掲載日:2007/2/15


道行きのコートを手に当時を振り返る蓼沼さん
道行きのコートを手に当時を振り返る蓼沼さん

 機屋から借りてきた商品を問屋に“売り込む”。この間、金銭は動かないが、問屋が小売りに商品を売ると、5%程度の仲介料「口銭」が入る。
 「なかなか入れない商売と、父から聞いていた。華やかでいわゆるエリートだと思っていたのでしょう。まったく知らない仕事だったが、幼友達の紹介などで雇ってもらった。うれしかった半面、プレッシャーもあった」
 足利市から桐生市の高級呉服の大手買い継ぎ商に住み込みで働き始めたのが20歳。1963年。織物業の繁栄ぶりを表現した言葉「ガチャ万」が下火になり始めたころだった。
 「小売りに売れなければ、商品が戻ってくる。それを機屋に持って行った。時には、1年ぐらいたってから返ってくる品もあった」
 就職2年目から戻ってくる商品の量が増え出した。数年続いた。そんな中、ある失敗で買い継ぎが異質な商売だと知ることになる。
 「機屋に、返品持ってきました、と大声で返しに行ったところ、ちょうどそこへ問屋が品物を見に来ていたらしく、後でえらい怒られた。変なものを返すのではなく、一生懸命織っていただいたものを申し訳ないという気持ちで持って行くんだと感じた」
 改革が必要と痛感、商品を借りるのではなく買ってくれる問屋を探した。機屋に安心してもらいたかった。都内の問屋を何十軒も回った末、1軒だけ気持ちを理解してくれた。しかし、壁にぶつかる。
 「機屋は、何を作ったらいい、と聞く。問屋に聞けば、自分で考えろ、と言う。それで考えて、当時、売れ始めていた道行きのコートを提案した。柄は街中を歩き回って、型板ガラスからヒントを得て決めた。図案も自分で勉強して描いた」
 これがヒットし、1年間売れ続けた。本当の商売をしていると実感した。一方、機屋に気に入られ、若手ながら「返品担当者」として社内で一目置かれた。
 26歳で退社。電気製品などの販売会社勤務後、7年前から写真店を経営している。地元だけではなく市外の顧客もいる。
 「自分、相手、周りの人。それぞれをつなぐのは心。買い継ぎをやっていて学んだことだ。当時の経験は、ずっと今でも生きている」

(桐生支局 浜名大輔)