絹人往来

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整理業 伊勢崎絣に最後の化粧 吉沢 弥彦さん(79)  伊勢崎市三光町 掲載日:2008/11/18


整理を手掛けた織物を掲げる吉沢さん
整理を手掛けた織物を掲げる吉沢さん

 「いくつもの工程を経て仕上がった機に最後の化粧をする。それが整理という仕事」。50年にわたって手掛けてきた仕事を端的に言い表す。
 織られたばかりの機はそのままでは伸び縮みし、製品にならない。最後にのりを抜いたり、熱を加えたりして、着物が作れるようになる。その作業が「整理」だ。
 父の弥四郎さんは1935年ごろに工場を持った。戦中に工場機械が取り壊され、一時操業を中止。終戦後の52年、整理業を再開する際に父から経営を任され、「吉沢整理」を継いだ。24歳の時だった。
 「一切合切を任された。若いうちは遊びに出ることもなく、一生懸命だった。できるだけ現場に出て一緒に働き、休みの日でも出てきて、やれることをした。そうしないと残れなかった」
 父は織物の表面にできる凹凸のしぼを扱う作業が得意で、「おやじから続く技術に信頼」を得て仕事は発展した。伊勢崎絣(かすり)やウールなどを扱い、最盛期の1960年代には40人余りの従業員を抱えた。
 「当時は仕事が豊富にあった。問屋が買い継ぎ商と一緒に直接工場に来て製品を持って行った。買い継ぎへ回したんじゃ間に合わないからって」
 転機は83年に訪れた。洋服が主流になって徐々に仕事が減り、50―60軒あった得意先も三分の一程度に。3年続けて赤字も出した。そんなころ、ナイロンの整理を扱う業者が足りないことを知り、悩んだ末に数千万円の高熱処理機を導入。大きな決断だった。
 「調べたら、一カ月たっても製品を納められないほど忙しく、業者は困っていた。それでやろうと決めた。うまくいく保証はないと悩んだけど、従業員や家族がいるし簡単にあきらめるわけにはいかなかった」
 仕事は再び波に乗った。市内の整理業者が廃業する中、最後の一軒になるまで続けてこられた。5年前に引退を決めた時は「それじゃうちが困る」と取引先から言われ、工場ごと貸し出すほど頼りにされていた。
 「悩むことも多かったが、50年間一つの仕事を続けてこられたのは幸せだった」。穏やかな口調でしみじみと語った。

(伊勢崎支局 高瀬直)