絹人往来

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2人の師 実学の人重なる面影 入沢 憲司さん(81) 渋川市渋川 掲載日:2008/02/27


吉田芝渓の墓の前に立つ入沢さん
吉田芝渓の墓の前に立つ入沢さん

 「小学4年生のころ校長先生に連れられて、市内にある渋川郷学の祖、吉田芝渓(しけい)
(1750―一1811年)の墓を初めて訪れた。校長は子供にも帽子を取ってあいさつする気さくな人で尊敬していた。多くのことを教えてもらった。校長が亡くなった後、たびたび話を聞かされた郷土の偉人に、亡師の面影を重ねるようになった」
 旧渋川町の入沢地区で養蚕農家の3男に生まれた。江戸時代中期に地元の開墾に従事し、地域に養蚕技術を根付かせた吉田に興味を持った。
 「1973年、地元の有志で渋川市史郷土史研究会を立ち上げてから、本格的な研究を始めた。79年には市誌編纂(さん)委員会が発足し、歴史部会と民俗部会を兼ねて参加した」
 休日を利用して仲間と資料を調べる中で、吉田の生年月日や実家の位置などが誤って伝えられていたことを発見。また、吉田の著書「養蚕須知」を初めて読んだ。
 「それまで養蚕の資料はほとんどなく、水戸公に招かれて本を献上した記述がある。当時は天変地異などで収穫が不安定で農民の離散もあった。その現状を解決するために書いた大事な書物なので一生懸命読んだ。100ページ以上あり、漢文で書かれていたので数人がかりで読み下した」
 吉田が開墾した土地は当時「芝中」と呼ばれ、付近に家のない山中の荒野。北に砂居川(現平沢川)、南に大清水と2つの渓流に挟まれていた。その風景から、号を「芝渓」にしたという。
 「吉田の100年ほど前、開墾に失敗した歴史があった。人が移住せず、無防備な畑を獣に荒らされて放棄したという。そのため、吉田は渋川村の家を手放して移住した。この地域の歴史を1から作ったと言える」
 市史編纂は16年に及んだ。吉田に関する研究成果は原始編第2巻に収まっている。
 「振り返ってみれば、校長と吉田芝渓、2人の師が重なっている。言葉で教えるだけでなく、自分でしてみせる実学の人だった」

(渋川支局 田中暁)