絹人往来

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地下室 工夫を凝らして桑貯蔵 山鹿 恵司さん(80) 太田市徳川町 掲載日:2007/1/5


桑を入れた地下室の入り口で、「手で掘ったなんて昔の人はすごい」と話す山鹿さん
桑を入れた地下室の入り口で、「手で掘ったなんて昔の人はすごい」と話す山鹿さん

 母屋前の物置には、天井高2.5メートル余りの地下室が残る。
 「桑を刈り入れ、ためておいた場所。萎(しな)びないように、桑に霧吹きやじょうろで霧をかけ、湿気を持たせていた。ため込むことができたから、蚕に雨でぬれた桑を食べさせたことはないし、長雨が一週間続いても耐えられた」
 南北5.45メートル、東西10.9メートルの間取りで、東端の1.8メートル幅が出入り口用。はしごを下り、れんがのアーチをくぐると、49.5平方メートル(15坪)の空間がある。
 「大正8(1919)年ごろに作ったとみられるが、当時だから機械でなく手掘り。近所の人にも手伝ってもらい、半年くらいかかったようだ」
 天井は地面より50センチほど高い位置にあり、採光窓が4カ所。壁はすべてれんがが張られている。
 「転(ころ)を使うので、桑を持ち込むのはいいが、はしごを上って出すのは容易じゃなかったし、離れた蚕室まで運ぶのも大変だった」
 一方で、温度が一定に保てることから、夏は涼しい空間だった。
 「桑が入っていない時は、気持ちよく眠れるので昼寝の場所にも使ったが、30分もすると寒くて目が覚めたほど。逆に冬は暖かかったね。周りの壁を支えにしながら、ローラースケートで遊んだこともある」
 床には直径50センチの排水口を備えている。
 「夏や秋の出水期、近くの早川が増水すると地下水位が上がり、床下から水がわき出した。ひどい時は1メートルも冠水したもんだよ」
 生家は、「順受館」という屋号で種屋も営んでいた。7、8人を雇うほどだったが、昭和初期にやめているため、記憶にはないという。
 「種の重さを量った分厘秤(ふんりんばかり)などが別の小屋に残っていたが、2年前の道路拡幅に伴って解体し、当時の器材は散逸してしまった。昔のこの地区は見渡す限り桑畑。一部で陸稲を作っていた程度で、小学校までの道のりは桑畑ばっかりだった」
 家業を継いでからは、主力が野菜栽培などに切り替わり、養蚕は昭和35(1960)年ごろまで。地下室はその後、豆の貯蔵、ガーリックの保管などに貸与したこともあったが、現在は空いたままになっている。

(太田支社 北島純夫)