絹人往来

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研究重ね独自の捺染 写真製版 小桜 一男さん(76) 高崎市芝塚町 掲載日:2006/11/11


写真製版による手捺染を実演する小桜さん
写真製版による手捺染を実演する小桜さん

 独自の新技術、コンクール、銘仙の衰退―。時を同じくする三つの出来事が運命を変えた。当時、捺染(なっせん)業を営んでいた。
 「昭和38(1963)年が本当の始まりだった。時代の流れで仕事が減りつつあったが、二つのコンクールで知事賞を取ると、関東周辺の銘仙産地から大量の注文が舞い込んできた」
 最高賞に輝いた作品は旧来の捺染とまるで違った。不可能とされていた微細な模様と濃淡ある色付け。しかも、異例の単色染め。手間のかかる「ろうけつ染め」の質感を、大量生産可能な捺染で再現してみせた。
 捺染は生地の上に型版を置き、上から染料をなすり付ける。小桜さんは小刀で切り抜いた型紙に代え、いち早く写真製版を導入し、さらに独自の工夫を加えた。
 「自分で考えた自分だけの技術。ひっそり訪ねてきて『金を払うから作り方を教えてくれ』と言う同業者もいたが、断らせてもらった」
 写真製版は薄い原紙をコーティングで固めて型版を作るが、その際に細かい模様がつぶれてしまう。小桜さんは研究に研究を重ね、補強剤にありふれた水性塗料を採用して問題を解決した。
 それに目を付けたのが銘仙産地の織物業者だった。銘仙は染めた糸を織る「先染(さきぞめ)」だが、需要低迷による苦境を打開するため、白生地を染める「後染(あとぞめ)」に進出しようとしていた。
 「最初は秩父(埼玉)の織物業者のグループ。それから、八王子(東京)、足利(栃木)、伊勢崎―。トラックで生地が毎日運ばれてくる。それまで一反ごとに違う柄を染めていたのに、明けても暮れても、何百反も同じ柄。痛快だったね」
 かつての銘仙業者は代わりに白生地を織り、小桜さんに捺染を外注。かれら“後発組”にとって、だれにもまねできない独自の染め物は、最大の武器になった。名声は関東各地にとどろいた。
 「染め物は斜陽だったが、うちは10年間注文が尽きなかった。それに陰りが出たら次はTシャツ。飛ぶように売れた。古いやり方を守るだけではだめ。時代に合わせて変えなければ」

(高崎支社 宮崎岳志)