機織り お召しや紋に誇り 岩倉 カツさん(73) 桐生市東 掲載日:2006/11/07
自分で織ったお召しに袖を通す岩倉さん
「機織りの給料は織った反の数で決まった。負けず嫌いな性格から織機を動かし続けていたら、一番の稼ぎ頭になっていた」
着物の需要が高まっていた1952年、19歳で桐生の機屋「森秀織物」に入社。すぐに機織りとして働き始め、お召しや紋などの複雑な織りを学んだ。
「1970年ごろ、給料は10万円くらいだった。当時としては良い方だったかも。でも、自分の半分もいかない人もいたから努力次第だった。織機を動かしただけ給料も上がったから、遊ばずに機織りばかりしていた」
仕事が終わった後も、4000本の経糸をつなぐ作業を2時間かけて行い、時には帰るのが深夜になることもあった。最初は1台だった織機も、ベテランになると3台を同時に扱って、帯、反物などを織った。秋ものなどのシーズンが訪れると、朝の出勤時間を1時間早めて織機の前に座った。
「機を織るのが好きだったから、忙しくても仕事は楽しかった。会社でも野球や旅行のレクリエーションが多かったので、それも楽しみだった」
機織りとして、一番の喜びは反物が出来上がった瞬間だった。自分が織ったお召しを着た人を見るたび、仕事に対する誇りがよみがえってきた。
「お召しや綸子(りんず)の手触り、紋の華麗さ、織りの複雑さ。美しく仕上がった織物を手に取るときは、機織りで良かったとしみじみ思った」
初めて自分で織った『縫い取りお召し』は、自分のために買った。織りの難しい無地のお召しで、紺地に赤や銀の縫い取りが施されている。
「会社に正月のあいさつに行ったとき、その着物を着ていった。袖を通した瞬間はうれしくて、とても誇らしかった」
39歳で森秀を退職。「退職したら思う存分お召しを着ようと思っていたが、機会がなくてそのまま着なくなってしまった」。今も自宅には、たくさんのお召しが眠っている。
「少し前にお召しを着ている人を見てやっぱりお召しはいいなと思った。絹の軽さや着心地、生地の高級感など、ほかにはない魅力がある。久しぶりに自分で織ったお召しを着たくなった」