丸登製糸 青春“紡いだ”4年間 雲井 サダ子さん(60) 前橋市下小出町 掲載日:2008/04/01
丸登製糸に勤めていた時代の新聞や写真を見ながら思い出を語る雲井さん
高校を卒業した1966年春、山形県から前橋市国領町にあった丸登製糸に就職した。実家は米作、養蚕を営む農家だった。
「父に反対され、迷いもあったが…。繭を納めていた丸登製糸の出張所が近くにあり、実家から離れて就職したいという気持ちも強まって前橋に来た。女子の高卒者を初めて採用した年だった」
期待を胸に、社会人としての第1歩を踏み出したが、丸登製糸は火災で焼失した後で工場がなかったという。
「広い敷地に女子寮と繭の乾燥場ぐらいしか残ってなくて、不安にかられた。家元を離れた寮生活に寂しさも募った。相手の言葉は分かるのに、山形でしゃべっていた言葉が通じなくて。同僚に蚕糸高を出た人がいて、校名から群馬は蚕糸業が盛んなんだと感じた。工場ができるまで繭の倉庫の掃除や埼玉県の製糸会社にバスで行って仕事を覚えた」
真新しい工場が完成、大正期に創業した“いとの町前橋”屈指の製糸工場が活気を取り戻す。
「工場は自動化、機械化され、繭から取り出される糸の太さを調査する仕事を任された。機屋さんか糸問屋からの注文だったのだろうか、何粒の繭でどのくらいの太さになるかを調べた。結婚を機に退社するまで四年間勤めた」
戦後の復興を担い、活況を呈した製糸業は徐々に衰退、丸登製糸は81年に創業を停止する。
「工場を止めたといっても建物はあった。煙突が倒された時は家じゅうで泣いた。家族から写真を撮ってきてといわれたが、切なくて現場には行けなかった」
毎年2月に仲間が集い、思い出話に花を咲かせる。今年は伊香保温泉で六人が顔を合わせた。
「実家にはお盆と正月しか帰れなかったけど、女子は大切にされ、お花や和裁の先生を呼んでくれたり、習い事もさせてもらった。丸登製糸に勤めたことは誇り。当時はつらく、いやだなあと思っていたこともあったのだろうけれど、40年の歳月が流れた今となっては楽しい、いい思い出ばかりになっている」
故郷を離れ、丸登製糸で過ごした4年間に、雲井さんの青春が凝縮されている。