生活の象徴 守りたい養蚕の神社 石坂 初男さん(74) 榛東村広馬場 掲載日:2007/05/13
生活の象徴だった絹笠神社の前に立つ石坂さん
「子供のころは毎年、4月3日が楽しみだった。近所の絹笠様の神社でお祭りがあって、家では赤飯を炊いた。特別にお小遣いももらえてね。10メートル近いのぼり旗が2本立ち、露店が出て何ともにぎやかだった」
当時、旧相馬村広馬場の下ノ前(現榛東村広馬場)は30戸ほどの養蚕農家が並び、辺り一面は桑畑。「蠶養大神(さんようたいしん)」を祭る絹笠神社は生活の象徴だった。そのなかで育ち、18歳から家業の養蚕に取り組んできた。
「大正のころ、父や友人の祖父らが大八車を使って大きな石を村に持って帰ってきた。村の守り神だから、記念碑を置こうと思ったんだろう。今でも神社の後ろに立っている。別の石碑には、社殿の改修費用を寄付した人の名簿と金額が記されている」
こうした父の姿勢を見ながら、養蚕農家の跡取りとして、地域の活動にも力を入れてきた。
「1977年に榛東農協(現北群渋川農協)の非常勤理事になったのがきっかけで、養蚕に対して生産家以外のかかわりも持つようになった。村の農業委員として活動した時期もあった」
80年代後半から90年代にかけて、養蚕農家一色だった村にも野菜農家が増え始めた。その調整役に当たった。
「野菜を育てるため農薬をまく。これは虫の成長を止める薬だから春蚕に良くなくてね。だから散布する時は両者の間に立った。世話人がいなくなって桑園が荒れた時は村に補助金を頼み、10アールにつき3万円出してもらった。翌年から県も出してくれて、重機を使って桑を撤去して回った」
自身は給桑用の機械を導入して、地域で最後の1軒になるまで養蚕農家を続けていたが、10年前に辞めた。その後、農協に常勤で入り、北群渋川の組合長を務めた。
「妻とも、精いっぱいやったがこれまでだなと話した。桑園の跡地は宅地に転用され、前橋や高崎に通勤する人が榛東に住むきっかけになった」
今年の4月3日、神社の祭りで「養蚕農家がいないのに、なぜ養蚕の神を祭っているのか」との声が出たという。
「養蚕の実体験を持つ最後の代として、社の名前も、ご神体も変えることはできない。文化財のような形でなんとか次の代へつないでいきたい」