絹人往来

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前原紺屋 先祖代々の職に誇り 松下 三郎さん(81) 高崎市高砂町 掲載日:2006/06/02


81歳の今でも仕事を続ける松下さん
81歳の今でも仕事を続ける
松下さん

 「やはり、先祖代々の仕事に誇りがある」
 高崎市高砂町で松下三郎さんが営む「松下染物店」は、江戸時代に創業した“前原紺屋(こうや)”の流れをくむ。3代目の末子だった父が分家して開いた店で、三郎さんは本家の初代から数えて5代目にあたる。
 初代の山三郎(さんざぶろう)は浅間山が大噴火した1783(天明3)年生まれ。江戸で修業を積んだ後、現在の前橋市青梨子町前原地区に紺屋を開いたとされる。
 「おおぜいの職人を使い、財をなし、通称『前原紺屋』と呼ばれるようになった。前原から三国街道金古宿(群馬町金古)まで、他人の土地を踏まずに歩ける―と言われたほど繁盛したそうだ」
 三郎さんの父、国蔵さんは第二次世界大戦中に独立し、現在地近くに店を構えた。国鉄で働いていた三郎さんは徴兵を経て退職。群馬町に移転していた本家で修業し、1950年に家業に入った。
 「染色に薬剤を使うからか、紺屋の子供はわりと衛生兵に選ばれた。私も高崎陸軍病院(現在の国立病院機構高崎病院)に配属されていた」
 紺屋にもそれぞれ専門があるという。柄染めだけの店もあれば、営業専門という店も。三郎さんが扱うのは無地染めと湯のし、洗い張り(洗濯)。柄染めは同業者に外注してきた。仲間で仕事を回し合うのが紺屋の世界だった。
 「最初は農家が自分で蚕を飼い、反物を織って娘の着物のために染めに出した。そのうち、京都の無地物が入るようになった。花街相手の店もあったが、うちの客層は庶民的で普通の農家や商家が多かった」
 市内で紺屋が栄えたのは70年代まで。庶民の服ではなくなり、成人式の振り袖は貸衣装に代わられた。70年ごろ市内百軒を数えた業者も、今は15、6軒に減った。80歳を超えた今も仕事は続けているが、同業者から細々と注文がある程度だという。
 「京都に注文しなければならないので、うちが閉めたら仕事をやめるという店もある。長年の付き合いがあるから、断るわけにはいかない。子供に家を継がせなかったので自分一代限りにはなるが、体が動く間は続けたい」

(高崎支社 宮崎岳志)