仕事唄 作業を休まず楽しむ 小林 民子さん(76) 川場村生品 掲載日:2006/12/23
川場小学校の児童を前に仕事唄について語る小林さん
<蚕 三十日は 来るなというに 来たり泣いたり 泣かせたり>
川場村谷地の川場小学校で13日に開かれた「おはなし教室」で、同小の1、2年児童80人が見つめる中、仕事着をまとった15人の仲間とともに「繭かき唄(うた)」を歌った。
「養蚕農家たちは繭をかく時、即興で歌を作ってはそれを『仕事唄』と呼んで歌っていた。川場には『繭かき唄』『桑とり唄』の2曲が、今も伝わっているんです」
幼いころ、養蚕をやっていた母親が歌ってくれた仕事唄を次世代に引き継ごうと、2003年に「川場村繭かき唄保存会」を設立。県内各所で、明治期の作業風景を紹介しながら2曲を披露している。
明治期に多くの養蚕農家が軒を連ねた同村は、5―6月が1年で最も忙しい時期だった。「貴重な収入源の蚕を1匹も殺さずに育て上げようと、老若男女みんなが夜の睡眠時間を惜しまずに作業を続けた」
特に、回転蔟(まぶし)から繭を外す「繭かき」の作業は重労働かつ単調で、仕事唄は自然と出来上がったという。
「手を休めずにみんなが楽しめる暇つぶしから生まれたのが仕事唄なんだと思う」
当時、利根沼田地区は新潟県から出稼ぎに来ていた労働者が多かった。そのため、三国越えのつらさを描いた歌詞もあるという。
<三国峠で カラスが鳴くが 母(かか)が身持ちで 気にかかる>
<越後出るときゃ 涙で出たが 今じゃ越後の 風もやだ>
「歌の節はどれも、郷愁を誘うものが多い。故郷への思いを歌にはせ、暇つぶしとともに涙していた出稼ぎの労働者も多かったのでは」と推測する。
1979年、仕事歌を伝承する母親の元へテレビ局が撮影取材に訪れた。仕事唄のことはすっかり忘れていたが、それをきっかけに思い出したという。「母親が歌うのを見て、節回しや具体的な歌詞が思い出せた。あれがなかったら、川場の仕事唄は埋もれていったと思う」
おはなし教室を終えた後、笑みを浮かべて語った。「今の子供たちにどう伝わったかは分からないが、少しでも興味を持ってくれた子供がいたら、それでいい」