浮世絵 土蔵から繁栄示すお宝 関口 初男さん(73) みどり市東町小夜戸 掲載日:2007/2/21
鮮やかな色彩が残る浮世絵を手にする関口さん
「とても、こんなきれいな格好をしてできる作業じゃないがね」
苦笑いしながら、鮮やかな色彩が残る浮世絵を手にする。
端正な顔立ちの5人の女性が幼い蚕に桑の葉を与えている姿をきれいに描写している。手前に大きなまな板があり、包丁で細かく刻み、カゴに入れて運ぶ情景だ。透き通るような青色を基調に繊細な絵になっている。
10年ほど前、土蔵を整理中に見つかった。5枚の浮世絵が一束になっていた。作品には年代を示すものは書かれていなかったが、他の作品に「明治27年3月印刷、発行」と記されていたので、同時期のものと推測している。
「皇国養蚕図」「蚕養守護神」と書かれた絵や明治29年の「繭金懸控簿」、大正8年の蚕種子も一緒に見つかった。
江戸時代初期から養蚕が盛んな地区だった。1837(天保8)年の天保巡見使日記には「桑の木を大きく育て、葉を一枚一枚摘みとる方法で蚕を育てている。古い大樹より取る桑の葉は堅く土中より生える新桑よりは大いに剛実なり。この葉で生育した糸は締まりが強い。格別に珍重され相場も良い」とある。
昔は水利が悪いため水田はわずかで、百戸強の集落のほとんどが養蚕中心だった。
「平地はもとより、近くの山には桑の木が植えられ、一面が桑だらけだった。昭和40年代まではそうだった」
山の水が流れていたので先祖は水田を持ち、余力もあったらしい。農家が糸にしたものを買い取って市場で売りさばく「糸繭師」も兼ねた。
また、サナギがガになって繭に穴をあけ出てくる前に殺す「まゆあぶり」をして乾燥繭をつくり、保管できるようにしていた。
「5月から10月までは、畳を上げて障子も外し建具もどけた。蚕中心の生活で、人間は隅っこ。まさに『おこさま』でした」
初男さんの代になってからも春、秋、晩秋の3回、養蚕した。最盛期には夏と晩々秋も手掛けた。そのため家屋も典型的な養蚕農家の造りで、総二階建てだ。二階は板張りの蚕室でまぶしがびっしり置かれ、一階では雅蚕を育てた。今は居住用に改装している。