絹人往来

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養蚕日誌 代々伝える先祖の足跡 岩崎 良行さん(60) 神流町魚尾 掲載日:2008/02/20


「岩崎竹松」の肖像を描いた掛け軸と岩崎さん
「岩崎竹松」の肖像を描いた
掛け軸と岩崎さん

 5代前の先祖は、明治期、養蚕改良暢育社(後に高山社分教場)を設立するなどして生涯を養蚕の研究に注ぎ、蚕業技術向上に貢献した岩崎竹松(1826―98年)。自宅近くには子弟らが建てた功徳碑が残されている。
 「高山長五郎(養蚕改良高山社の創設者)の訪問を受け、互いに養蚕の研さんをしている。竹松の『温暖育』は、奥州各地を研究に回ったときに学んだものか。何事にも一生懸命の人で、蚕が始まると終わるまで、気温の変化が分からなくなるからと着物を着替えなかったという話を聞かされた」
 岩崎家は先々代のころまで、蚕種の製造、販売など養蚕を家業にしてきた。1869年に竹松が建てた母屋は、「鬼門」を除き壁がない。通気を良くするためで、蚕のための造りだという。
 「家に残されてきた資料を20代で曽祖父から引き継いだ。歴史好きなのを知っていたのだと思う。祖父も父も健在だった。資料は岩崎家の生きざま。荷が重かった」
 「60年間秘伝置鑑」は、竹松のころから3代にわたって天気や蚕の様子を記してきた養蚕日誌だ。
 「たとえば毎年立春に井戸水一升の目方を量った。重いか軽いかで、その後の気候を探ろうとした。60年を振り返ってこの年はどういう年なのかと分析したものもあり、いつでも見られるよう代々身近なところに置いてきた」
 「記録を基にして、次のステップを考える。統計は昔も今も大切だと思う。会社の仕事をしていても修理履歴だとか用具の交換時期だとか、まず数字を記している」
 高校のころまで「ジットン」と呼んだ運搬装置でクワ束を山から下ろす作業を手伝った。桑畑は消えて風景が変わったが、養蚕のある生活は記憶の中に深く刻まれている。
 自由民権運動や秩父事件にも絡んで、研究者らが時折訪れる。
 「どんな資料があるのか、間を見て確認している。もう実際の場面で生かされることはないのだろうが、資料が埋もれるのはもったいない。研究などで協力できることがあれば協力していきたい」

(藤岡支局 戸沢俊幸)