絹人往来

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戦争 食糧難で桑畑にイモ 松本 昭二さん(78) 館林市大島町 掲載日:2007/3/2


蚕室として使った納屋の前に立つ松本さん
蚕室として使った納屋の前に立つ松本さん

 「戦前は大島地区でも多くの養蚕農家がいたが、1965年ごろには20軒ほどに減った。その後、4軒だけになり、72年まで養蚕に従事した自分たちが一番最後だった。大変だったけど、本当によくやった」
 農家に生まれ、子供のころから養蚕の手伝いをしてきた。二男のため、旧制館林中を卒業後、茨城県日立市の工業専門学校(現茨城大工学部)に進んだが、出征した長男が戦死し、農家の9代目を継いだ。
 「子供のころ、繭をたくさん積んだ馬車の荷台に乗って市街地まで行き、繭を出荷した後で、カレーを食べさせてもらうのが楽しかった思い出の一つ」
 母屋の一画に馬小屋があり、戦前は馬、戦後は牛を飼っていた。
 「当時は中心市街地でも馬や牛が平然と歩いていた。ランプの薄明かりの下で蚕に桑を与えていた時代から、社会環境が急激に変わっていった」
 食糧難だった戦前戦後の8年間は、10アールほどあった桑畑を開墾して、ジャガイモやサツマイモを植えた。貞子さん(73)と53年に結婚し、桑を植え直して養蚕を再開。父親は村長を務め、自分は建設現場に出稼ぎに出ていたため、蚕の飼育はもっぱら、母親と貞子さんの仕事だった。
 「中断前の道具が残っていて、母親と妻が養蚕教師に教わりながら蚕をした。当時は麦よりも蚕の方が収入になった」
 春、夏、秋の年3回、蚕を飼った。春蚕と晩秋蚕では、飼育室の温度を確保するため、60年ごろまで炭を使った。1メートル四方のブリキの火鉢に炭を入れて温めた。その後、電力会社が養蚕用に200ボルト電力を普及。換気の必要がない電気ストーブへと変わっていった。
 このころ、政府が所得倍増計画を掲げ、工業化が急速に進んだ。高度成長の中、農業も機械化し、農薬散布の普及につれて、養蚕が衰退、水田稲作が急速に広まった。
 9年前に蚕室として使った母屋(約300平方メートル)を壊した時に、飼育棚や回転蔟(まぶし)、竹かごなど養蚕道具の大半を処分した。唯一残った納屋が、かつて養蚕農家だったことを静かに物語っている。

(紋谷貴史)