絹人往来

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商人さん 300軒と親せき付き合い 大竹 義章さん(64) 沼田市西原新町 掲載日:2006/11/23


看板を手に「あと10年は生繭に関わりたかった」と語る大竹さん
看板を手に「あと10年は生繭に関わりたかった」と語る大竹さん

 元県繭糸商業組合利根沼田支部長で、1992年まで生繭の仲買商をしていた。自宅に当時の看板を大切に保管している。縦約1メートル、横約20センチの木製看板には太字で「繭糸 大竹商店」と書かれている。
 「父が1962年に市内の看板店に頼んでつくってもらった。当時の事務所の壁に生繭取扱許可証と一緒に飾っていた。ほとんどのものは処分したが、これはどうしても捨てられない」
 高校卒業後に上京、夜間大学に通いながら東京都水道局に務めた。しかし、25歳の時、父に請われて故郷に戻り、家業を継いだ。
 「子供のころは繭のにおいが嫌だったので、絶対に父の仕事はしたくなかった。しかし、父から誘われた時に覚悟を決めた。父からは『申し訳ないが、この仕事はお前の代で終わる』と言われた。すでに商売の行く末を見抜いていたのかも知れない」
 当時、沼田市のほか利根郡東部の養蚕農家約300軒と取引があった。春や秋の出荷時期には農家や農協の集荷場に足を運び、生繭の買い付けや製糸会社との連絡に追われた。
 「一番多いときは年間12万キロを扱った。かつてはどの農家も『商人(あきんど)さんが来た』と言って、忙しくても蚕室の一角に畳を敷いて接待してくれた。特に春蚕(はるご)は農家にとっては、その年最初の現金収入。本当に喜ばれた」
 しかし、1970年代に入ると生繭の取扱量は減少。かつて利根沼田で200人ほどいた同業者は、90年代に入ると40人にまで減少した。農家の養蚕離れも相次ぎ、ついに廃業を決意した。
 「辞める20年ほど前からすでに陰りは見えていた。しかし、どこの農家とも親せき以上の付き合いができていたので、簡単に辞められなかった。農家の信用を裏切るような、買いたたきもできなかった。あの時の農家とは今も付き合いが続いている」
 その後、ゴルフ場勤務などを経て、今年3月からクリーニングの取次店を始めた。
 「絹の光沢は正直。着物や絹製品をお預かりすれば、良いものかどうかは見れば分かる。今でも人と話をするのが好きなので、仲買の経験はこの商売に生きている」

(沼田支局 金子一男)