指導員 蚕のプロ救済へ奔走 川端 義隆さん(71) 高崎市島野町 掲載日:2006/12/8
全国蚕業技術指導所職員協議会の最後の会長として発刊した記念誌を眺め、当時を振り返る川端さん
養蚕農家を知識、技術面から長年支えた蚕業改良普及事業が1994年、大きな転機を迎えた。戦後間もなく全国各地に蚕業技術指導所がつくられ、蚕業改良指導員が配置されたが、蚕業が衰退する中、政府は95年3月末で指導所を廃止し、農業改良普及センターに統合する方針を決めた。
「出勤すると、朝一番から『何とかしてくれ』と全国の仲間から電話が相次いだ。廃止されると職員の行き先がなくなる。深刻だった」
管内に2800軒の養蚕農家を抱え、全国生産量の1割のシェアがあった西部蚕業事務所の所長で、指導所職員の全国組織のトップも務めていた。
「そのころは人工飼料が急ピッチで普及した時期。品種や桑園(そうえん)の改良、自動給桑機の導入なども進み、養蚕農家への指導を停滞させるわけにはいかなかった。廃止されれば農家はどこに指導を求めればいいというのか」
当時、改良指導員は全国に約420人、県内には42人いた。養蚕講習所で学んだ蚕のプロだが、短大卒の扱いのため資格面でセンターへのスムーズな配置替えが困難と見られていた。
センターとの統合は養蚕農家への総合的、効果的な指導が期待できたが「指導員はセンターにそのまま受け入れられない状況。身分が不安定になり、意欲の低下も懸念された。群馬は養蚕依存度が高いだけに心配も大きかった」。
不安で眠れない日々。毎週のように東京・霞が関に足を運び、本県出身の石原信雄・内閣官房副長官=当時=らに陳情した。その結果、指導員はスライド式に異動できるようになったという。
「陳情がうまくいかなければ、今の群馬の養蚕の様子は変わっていた。尻ぬぐいの仕事だったが、あのステップを踏まないと蚕糸は終わっていた」
世界遺産登録運動が盛り上がりを見せる中、養蚕業があらためて注目されている。
「上ばかり見ていて、養蚕農家がいなくなれば本末転倒なこと。繭代保証の倍増など養蚕農家にメリットのある施策が、今こそ求められている」。蚕業支援に40年携わった元行政マンは言葉に力を込める。