蚕桑研究 新農法で収繭量向上 茂木 義一さん(72) 中之条町大塚 掲載日:2008/03/25
感謝状を手に笑顔を見せる
茂木義一さん
高校を卒業後、中之条町の蚕業事務所で養蚕の技術を1年間学んだ。代々続く養蚕農家のため、物心ついたときから蚕が身の回りにいるのが当たり前だったこともあり、何の迷いもなく実家を継ぐと決めていた。
「1950年代後半、吾妻地区の農家の年間売り上げは約36万円。このうち養蚕が7割ほどを占め、10アール当たり約75キロの収繭量だった。必死に働いても収入に結び付かない時代。7けた農家を目指し、年間の売り上げ100万円、収繭量1トンを目標に掲げ、とにかく一生懸命だった」
58年から11年間、養蚕青年らで組織する吾妻蚕桑研究会の会長を務めた。会員は当時約80人。仲間とともに、日々養蚕技術や桑の栽培を研究し、吾妻地域の養蚕振興に貢献した。
「従来は桑を均等に並べて栽培していたが、1メートルほど埋めた肥料の上に3本の桑を植え、それを円形に5組配置する新しい農法を取り入れた。それまで約1メートルしか成長しなかった桑が、60年代前半には3メートルまで成長するようになり収穫量がアップ。会員のほとんどがこの農法を取り入れ、10アール当たり200キロまで収繭量が伸びた」
64年から4年間、県蚕桑研究会連合会の会長も務めた。
「蚕桑能率コンクールなどを開き、能率上昇への意識向上や、農家同士の知識と技術の交流を図った。70年の連合会創立20周年大会では当時の神田坤六知事から、養蚕の振興、発展に尽くしたとして感謝状をいただいた」
家では、養蚕だけでなく酪農や養蜂(ようほう)、稲作、コイの養殖などにも取り組んだ。
「狭い土地で効率よく収入を得るために、水、陸、空のすべてを使った。桑と桑の間に牧草や花を植え牛やハチを放し、田んぼでコイも育てた」
養蚕から離れて38年ほどになる。今は養蜂を続けながら、イノシシ牧場、イノシシ料理店を営む。
「研究会時代の仲間と会えば、自然と養蚕の話で盛り上がる。それぞれいろんな道に進んでいるが、当時を忘れる人はいない」
当時の仲間からは、今でも「会長」と呼ばれている。