絹人往来

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分教場 養蚕家育成に尽力 折茂 幹一さん(74) 藤岡市上大塚 掲載日:2006/06/21


先代が使った蚕種貯蔵用の箱を手にする折茂さん
先代が使った蚕種貯蔵用の箱を手にする折茂さん

 日本初の養蚕学校で「養蚕県群馬」の基礎をつくった高山社(藤岡市高山、当時)。折茂幹一さん(74)の自宅は昭和初期まで、高山社の生徒が実地研修を兼ねて学ぶ「分教場」だった。
 「小さなころだったから、ほとんど覚えていないが、おやじは高山社教師だった。北毛出身の生徒が多く、県外からも来ていた。生徒たちは、うちで働きながら学んだことを地元の養蚕農家に教えたんだ」
 折茂さんの家は江戸時代から続く養蚕農家。曽祖父・折茂健吾さんは明治初期、初代緑野・多胡兼南甘楽郡の初代郡長を務め、行政面でも地域のために尽力した。10数年前に養蚕はやめたが、先代まで養蚕を教えながら蚕種製造をしていた。
 絣(かすり)の着物の分教場の生徒たちの写真が残っている。いずれも10代前後の若者。
 「いつも10人位の生徒がいたみたいだ。若い人ばかりだったから、住み込みで働いていたと思う。分教所を閉めた後も、何人かの生徒たちとは付き合いが続いていた」
 築200年の家屋は、風が通り抜けて蚕が過ごしやすいように東を向いている。それを教訓にしたのか、同じく東向きの家を建てた生徒もいたという。
 先代が、静岡県出身の生徒に「勤勉だから」と5円の賞与を渡した証書がある。
 「優秀だったから、かわいがられていたんだろうね。静岡でも養蚕をやっていたようだ。律義な人で、『静岡には何でもあるから』と季節ごとに贈り物をしてきた」
 養蚕家にならなかった生徒もいる。「石川県出身の楽満二八(らくまんにはち)という人は、15歳でうちに来たと話していた。地元に帰って少しだけ養蚕をやったが、結局国鉄に入って大宮駅の助役になった。おやじよりいくらか若かったが、英字新聞を読んでいて感心した」
 高山社では、蚕の生態や病気の研究のため、英語やドイツ語を教えていたという。英語はそのころに身に付けたのかもしれない。
 折茂さんの家には、証書や印鑑など、高山社や当時の養蚕業を研究する上で貴重な資料が多く残され、専門家の調査が進んでいる。
 「養蚕をやめてしばらく経つけど、道具も書類も捨てられない。先祖代々、後進を育て、養蚕業を守ってきた証しでもあるからね」

(藤岡支局 前原久美代)