蚕種業 飼育所と取引円滑に 町田 勇さん(73) 藤岡市中大塚 掲載日:2007/11/21
インドネシアで指導した時の写真が収められているアルバムを広げ、蚕種業について語る町田さん
伊勢崎市境島村(旧境町島村)の島村蚕種協同組合に1954年に入社し、解散するまでの約35年間、主に販売を担当した。
「最盛期は7万箱の種を販売していたが、養蚕が衰退し、最後は1万6千箱くらいだった」
父は、明治時代に設立された日本初の養蚕学校「高山社」を卒業し、養蚕指導で県内各地を回った。
自身も養蚕に携わる道を選び、ふ化したての蚕を養蚕農家に販売する蚕種業界に進んだ。県内外にある分場で飼育した種を養蚕の時期になると農家に販売した。
「安定したいい繭を作るため、病気を持たない種を売らないといけない。種屋(蚕種業)の責任は大きかった」
繭の作柄を安定させるため、62年ごろから各地域で稚蚕共同飼育所が設置された。それまで各農家は個別に種屋と取引していたが、飼育所は品種を統一するため、1業者と取引することになった。
「飼育所ができたことで養蚕は効率的になったが、種屋は大騒ぎだった。取引先を減らさないために各地域を回って大変だった」
販売目的で農家を回るだけでなく、各地域で温度管理などの飼育指導も行った。73年には海外進出を視野に、養蚕文化のあるインドネシアに蚕や蚕具を送って現地で指導した。
「インドネシアでは、消毒や飼育方法を1から教えた。半年の指導期間だったが、いい経験になった」
県内で取引のあった蚕種業者でつくる上毛蚕種協会の会長として、飼育所と蚕種業者の取引の円滑化を進めた。
「繭のできが良かったと農家から喜ばれるとうれしかった。時代の流れだが、養蚕農家が減り、県内から蚕種業者がなくなったことは残念」
養蚕農家は高齢化が進み、輸入商品や化学繊維の流通で厳しい現状が続くものの、島村蚕種農家群を残してもらいたいと願っている。
「維持していくのは大変だが、残すことで日本の生活を支えた人たちの意気込みを伝えることができるのではないか」