浅間山 天敵の降灰と奮闘 宮崎伊三郎さん(82) 嬬恋村鎌原 掲載日:2007/3/3
「子供のころは、繭をシートで包んだトラックで小諸に出荷したなあ」と仲間と話す宮崎さん(左手前)
「鎌原の辺りは、浅間山の噴火で、畑に小石が多くて土が悪かった。畑を耕すくわが、普通だと10年間はもつのに、ここら辺では1年で駄目になった。専業で野菜などを作れなかったけど、桑は育ったから現金収入は蚕を飼うくらいしかなかった」
戦前から昭和40年代にかけて、鎌原住民の生活を支えた養蚕。およそ100世帯あった集落のうち、多いときでは80世帯が蚕を飼っていた。
「繭でないと金を取れなかった戦後は、特によく浅間山がはねた(噴火した)。6月以降に灰が降ると、本当に大変だった。酸性の灰がついて桑の栄養がなくなる。でも蚕は食べ盛りだから、灰がついた桑を村の真ん中を流れていた用水で全部洗って、干してからくれた。川は下の方にいくと真っ白。そういうときは、向こうが透けて見えるような繭しかできなかったから大変な思いをした。はねれば、桑畑にシートをかけたいようだった」
養蚕にとって天敵だった浅間山の降灰。それでも貴重な収入源を確保しようと、試行錯誤を繰り返しながら蚕を飼った。
「昭和35年ごろ、『種おこ』って言って、種を取るために蚕を飼ったことがある。繭として出荷するよりもうかるっていう話だった。1年目でえらい稼いだ人がいたから、ほかの人も飼い始めた。おれも春、晩秋と普通の蚕を飼って、夏蚕に種おこを飼った。種おこは、繭がふにゃふにゃでも関係なくて、さなぎがしっかりしたやつがよかった」
種おこは、熟蚕のときに雌雄を判別し、雌の繭だけを中之条町にあった蚕糸製造会社に、雄の繭は通常の繭と同じように出荷した。
鑑別士の女性が20人くらい、一番忙しい熟蚕のころに1週間くらい公民館に泊まり込んで判別した。1回に蚕種20―25グラムを飼ったが、繭を作るときに、4、5人が来て、2日くらいで雄と雌を分けた。
「でも鑑別士がいじると弱い蚕が死ぬんだ。いくら金になると言っても、死んだ蚕を見るのは忍びなかった。計算通り出荷できなかったので、3年くらいで種おこを飼う人はいなくなった。結局、普通の蚕を丁寧に育てたほうが金になったんだ」