紋付き 半生の思い出紡ぐ 梶山 イシさん(91) 東吾妻町植栗 掲載日:2007/11/22
思い出の詰まった「紋付き」を手にする梶山さん
「紋付き」の羽織と着物を傍らに置き、笑顔を絶やさなかった。自宅の居間で時々、手を触れながら昔を懐かしむように静かに口を開いた。
「絹はいいやねえ。軽くって、光沢がきれいで光が違うもの。ウールや化繊の着物なんかとわけが違う」
渋川市内の農家の2女に生まれた。養蚕やコンニャク栽培、稲作をするこの地方の典型的な農家だった。
「母も、姉も自分の記憶にないころに亡くなり、父親の男手ひとつで育てられた。実質的に長女のようなものだったから、家事も農作業も自然に覚えた」
小学生のころから、学校から帰ると畑に向かい、父親を手伝った。
「養蚕の季節になると、手伝いの女性たちがやって来たが、学校から帰れば桑摘みの作業が待っていた。日曜日になれば、朝から日暮れまで竹かごを背負い、桑の葉を自宅まで運び続けた」
年ごろになると、農閑期に「花嫁修業を兼ねて着物の仕立てを習った」。母親代わりに日ごろから裁縫をしていたから上達も早かった。
「浴衣から始まり、訪問着や振り袖など、絹を使った本格的な仕立てもできるようになった。お針の先生が預かってくる芸者さんの江戸づまも縫ったよ」
兄嫁が、染みの付いたりして出荷できなかった繭から糸を紡ぎ、平織りの反物にして分けてくれた。それを持って紺屋(染物屋)に出掛けた。
「自分の好きな色に染めてもらうのが楽しみだった。羽織や着物など、よそ行きの10着くらいを仕立てたかな」
それは花嫁道具になった。結婚して2年目に夫は出征、そのまま2年後に戦死の公報が届いた。嫁ぎ先からは「若いし、将来を考えて実家に帰った方がいい」と言われた。
「結婚前に作ったふじ色の着物をほどき、黒く染め直して紋付きに仕立て直した。夫の葬儀の喪服にと思ったが、その夫のために袖に手を通すことはなかったよ」
遺骨も遺品も届かなかった。終戦の前後とあって生活は厳しく、「実家に面倒をかけるわけにもいかず縁あって再婚した」。
梶山の家に嫁ぎ、1男2女を授かった。「10着ほどあった着物は染め直し、仕立て直して子供たちの着るものになった。残っているのは、この紋付きぐらいかな」