絹人往来

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ラメ 桐生の技で新製品を 山本 作幸さん(68) 桐生市新宿 掲載日:2008/07/25


ラメを手にする山本さん
ラメを手にする山本さん

 金色や銀色など金属質の輝きを放つ糸「ラメ」に長く携わってきた。現在、ラメを活用したニットの企画、製造などを行う「山策」(桐生市新宿)の社長。「ラメは帯や金襴(きんらん)などに使われ、織物の華やかさを演出してきた」と話す姿からは、桐生の繁栄の一翼を担ってきたという自負がうかがえる。
 滋賀県の旧上田上村桐生(現大津市上田上桐生町)出身。同社は父で故人の作次さんが1949年に桐生市で創業した。「父が桐生に来たころは織物が華やかで『西の西陣、東の桐生』なんて言われた。実家がラメの製造販売を行っていて兄弟が西陣で仕事をしていたから、桐生を選んだようだ。実家などで作ったラメを桐生で売っていた」
 「ラメは現在、ポリエステルフィルムを使うけどね。当時は和紙を張り合わせて作った。和紙は大きさが90センチ×135センチほど。20センチ四方ほどの金箔(きんぱく)や銀箔を張り、約200メートルの長さにつないでから細く裁断した。滋賀の実家にいた中学生のころ、よく手伝わされた」
 桐生へ移ったのは大学を卒業した22歳のころ。「長男で跡継ぎだったから、父の仕事を手伝うのは当然だと思っていた。だけど知らない人ばかり。不安はなかったけど、いやだった」と苦笑いする。
 織物の全盛期。「とにかく売れた。毎日、30キロの箱が100個以上届いて全部、はけた。当時の月収は今の年収くらいだった。仕事が楽しかった」
 30数年前からラメを使ったニットの企画、製造も始めた。「ラメ糸の販売だけでは物足りなくなったし、こういう製品の需要も出始めていた。思ったこと、感じたことを生かして製品にする。10点作っても、売れるのは1点か2点だが、それでも張り合いが出た」
 業界を取り巻く環境は依然として厳しい。「注目を浴びて量が動くようになると、仕事を中国に持って行かれてしまう。まるでサンプルメーカーになったようだ」と感じることもある。だが「桐生はいろいろな技術を持った人が多い。ラメを活用した新しい製品をこれからも考えていきたい」と意気込む後継者、孝次さん(40)を見守る目は温かい。

(桐生支局 奥木秀幸)