歩留鑑定 品質見極め値付け 片桐 正夫さん(87) 高崎市新町 掲載日:2007/4/28
当時の工場を撮影した航空写真が部屋に飾られている。片桐さんは「鐘紡は青春時代」と表現する
戦後間もない1946年、製糸の際に出る屑(くず)などを集めて生糸同等の糸を作り上げた当時の鐘淵紡績新町工場(高崎市新町、現カネボウフーズ新町工場)に入社した。それから操業を停止する75年まで同工場で働き、絹糸原料の買い付けや歩留(ぶどまり)鑑定に携わった。
山形県の農家に生まれた。大学進学のため、満州に渡り、戦争の激化に伴い軍に駆り出され、四国で終戦を迎えた。いったん古里に戻るが、鐘紡の試験を受け、新町工場に採用された。
「着るものもなく、軍服で新町に来た。当時は2000人以上が工場で働いていて活気があった」
入社当時はGHQ(連合国軍総司令部)の管理下だったため、繭の取引値や従業員数を取りまとめる責任者として、毎月その報告書を前橋にあるGHQの事務所まで自転車やバスで運んだという。
その後、絹糸原料の担当となり、62年からは、歩留鑑定の職に付き、国内だけでなく、輸入業者から買い付けた中国やインドなどの原料を肉眼鑑定した。ごみや蚕のさなぎが付着していないか、品質は良質かどうかを見極めて値を決める全責任を負った。
「いかに安く良質な原料を買うか。品質世界一を目指してどこにも負けない製品を作るために一生懸命頑張った」
当時、鐘紡は絹糸紡績の原料となる屑糸などを買い付け、絹紡糸を生産。全国生産の5割以上を集荷しており、「鐘紡の買い付け値が市場相場を左右する」と言われ、責任が重かった。
住民組織「よみがえれ!新町紡績所の会」の会長を長男の庸夫さんが務めており、保存運動を温かく見守っている。
「平和産業の一環として戦後復興に少なからず貢献したと思うし、悔いはない。自分の生涯を懸けて働いた鐘紡は心の古里。日本絹紡発祥の地として、歴史と伝統を刻む紡績所をぜひ保存していってほしい」