絹人往来

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養蚕手伝い 餌の桑準備夜の日課 高橋 栄一さん(90)  安中市上後閑 掲載日:2008/11/21


当時使っていた道具を手に話す高橋さん
当時使っていた道具を手に話す高橋さん

 地元の養蚕農家に生まれ、幼いころから両親が蚕を世話する様子を見て育った。
 「山に約5ヘクタールほど桑畑があったが、それほど大きい農家ではなかった。父はよく近所にある本家に行き、養蚕を手伝っていた」
 上後閑地区は左右を山に挟まれて日照時間が少なく、田んぼが少ない。気温も低いため、掃き立ての時期も町中に比べ三―五日遅かった。6、7回掃き立てることもある町中の農家と違い、同地区は春と秋、晩秋の3回が多かった。
 夜寝る前に、翌朝すぐ蚕に食べさせる桑の葉を枝から落とすのが子供のころの日課。「全部終わって親に『もう寝てもいいよ』と言われるまで、よく居眠りしながらやっていた」
 境町島村(現伊勢崎市境島村)にある大きな種屋がよく蚕種を持ってきた。
 「この辺はほかと比べて寒いので、(早くかえらないように)種をむしろに入れて温度調節をするなど、工夫して届けてくれた」という。
 地元の蚕糸学校(現安中総合学園高)に入学。在学中は交代で学校に寝泊まりし、養蚕技術を学んだ。「(旧官営)富岡製糸場にも見学に行った。とても活気があった」と当時を振り返る。卒業後は教員になり、市内を中心に40年間勤めた。
 普段は学校の仕事が中心だったが、出勤前と帰宅後に毎日、桑取りやふんの清掃などをした。養蚕が忙しい時期に学校全体が休みになる「お蚕休み」には、家族全員で手伝った。
 実家の養蚕は、1956年に母親が亡くなるまで両親が続けた。
 「特に母は蚕が大好きで、丁寧に世話をしていた。蚕が病気などにかかり死んでしまう『はずれ』は1回もなく、周りの養蚕農家から評判も高かった」
 桑取り用のかまや摘み取った葉を入れるかごなど、昔使っていた道具は今も大切に残してある。養蚕の伝統や文化を伝えたいという思いは強い。
 「小さいころから桑を背負って家と山を毎日何往復もした。だから今でも足腰丈夫で健康でいられるのかもしれない」。養蚕を通じて心身共に鍛えられたと感じている。

(安中支局 菅原龍彦)