絹人往来

絹人往来

生糸問屋 生産者の思い届けたい 都木 五郎さん(67) 前橋市石倉町 掲載日:2007/2/23


生糸への功績が認められ、贈られた賞状が一番の宝物と話す都木さん
生糸への功績が認められ、贈られた賞状が一番の宝物と話す都木さん

 「繊細な技が光る着物の染織技術は、世界に誇れる日本の文化。一般の人が気軽に着物を着られる環境でないと、良き文化が途絶えてしまう」
 養蚕農家の五男。高校を卒業した1957年、前橋市内の撚糸(ねんし)会社に就職した。
 「当時は『ナイロンよこんにちは。シルクよさようなら』と言われた時代。化学繊維に替わられる心配もあったが、暮らしが豊かになれば、みんな着物を着るようになって、絹の需要が伸びると思った」
 営業畑を歩み、米国への輸出や国内各地の業者との商談に駆け回った。輸出が減り、得意先が米国から国内の織物業者になった70年代から、高級品が好まれるようになり、生産者の減少とともに国産生糸のコスト高の要因になった。
 「値段が高くなって、消費者が絹離れしていくことを心配した。減っていく国内生産量を考えると、将来を海外に求めるしかなかった」
 そんな思いに駆られ、勤務していた会社から独立、生糸問屋を起こした。国内産の高級糸を扱う一方、当時、国産品の5分の1ほどの価格だった中国産の絹を輸入した。
 「国内の養蚕農家には決していい影響はないと思い、輸入をためらう気持ちがあったが、着物を裕福な人のものだけにしてしまうのは忍びなかった」
 蚕の品種改良が立ち遅れていた中国へは何度も足を運んだ。日本で使える生糸の仕入れを目指して、現地の業者と話し合いを重ねた。80年代の終わりに、ようやく反物に使えるくらいまでの品質になった。
 「最初は糸が細切れのものばかりだったが、注文するたびに良くなった。昔の日本のように、豊かになろうとする人々の熱気を感じた」
 現在は県生糸問屋協会会長として、「ぐんまシルク」認定委員を務めている。県オリジナル蚕品種を使った生糸、絹製品のブランド化に力を注いでいる。
 「きめの細かい織物ができる国産品を信頼する消費者は多い。伝統的な絹づくりをしている県産生糸を消費者に分かりやすくアピールするのが今の役目。手間を掛けた生産者の思いを届けたい」

(前橋支局 田島孝朗)