糸繭商 玉繭引き受け繁盛 高橋 米治さん(71) 渋川市北橘町下箱田 掲載日:2007/06/06
糸繭商時代に母が織った玉糸の着物を手にする高橋さん
「まだ繭は来ないんかい」。1940年代、旧北橘村の農閑期。繭の入荷を待つ農家の主婦から、よく声を掛けられた。
「父、伝三郎が“糸繭商の伝さん”と呼ばれ、付近一帯(60戸)の農家が、貴重な現金収入として糸引きの仕事を受けていたためだ」
「大手の製糸場が引き受けない玉繭をうちでは扱っていた。1年中取れるものではないから、父は前橋の市場に出ると大量に仕入れて、家に詰め込めるだけ持って帰り、無くなると倉庫から引っ張り出してきた。家の中ではいつも繭の間を通って暮らしていた」
仕入れた玉繭は一貫(約4キロ)単位で袋に詰め、姉と手分けして農家を1軒ずつ回り、糸引きしてもらった。出来上がった糸を引き取るときは牛や馬の荷車に乗って、回収した。
「父の代で糸繭商を始めて、土地や屋敷を買った。休んでいるところをほとんど見たことがなかった。人がやらないことに目を付けたんだから、知恵者だったと思う」
玉繭は2匹の蚕が一つの繭を作った時にできるもので、ほぼ円形。糸は通常の2本分の太さで玉糸と呼ばれ、布を織った際に表面がでこぼこするのが特徴だ。
「玉繭はいくらでもあった。物がない時代だったから、母が糸を引いてきょうだいの分をいくつも織っていたよ。節だらけだけど丈夫で、百年は着られると言われている」
54年、前橋工業高校繊維科を卒業後、埼玉県の繊維工場に就職した。繭に囲まれて成長したものとして、ごく自然な選択だった。
「父は反対した。そのころには繊維業に見切りをつけて糸繭商も畳んでいた。まもなくナイロンが登場して生糸がだめになり、自分は故郷に帰ることになった」
「私は、父が50歳の時にできた末っ子で、随分かわいがられた。同じような道を自分も精いっぱいやったけど、人に対する気配りは父にかなわない。今でも同年配の間で出るのは“伝さん”の名前だよ」