絹人往来

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条桑育 省力化に大きな効果 今井 範さん(71) 藤岡市白石 掲載日:2006/08/02


吉井町の養蚕農家を指導する自分の様子が紹介された月刊誌『蚕糸の光』(1989年9月号)を見ながら当時を振り返る今井さん
吉井町の養蚕農家を指導する自分の様子が紹介された月刊誌『蚕糸の光』(1989年9月号)を見ながら当時を振り返る今井さん

 県立蚕業講習所(現農業大学校)を卒業して1959年、多野藤岡養蚕農業協同組合連合会に技術員として就職した。
 「蚕業講習所を卒業すると短大卒の資格があり、県の職員になる同期もいたが、上野村の実家で繭を扱っていたこともあり、養蚕の道を選んだ。技術員は国から給料の半分が出ていて準公務員的な存在だった」
 技術員は市町村の各農協に一人ずつ常駐し、養蚕農家を指導した。「当時は、農協で絶対的な権力があった。組合長の次ぐらい。養蚕はお金になったからね」
 最も印象に残るのが、「60年から始まった省力化の一大改革」という条桑育(じょうそういく)の普及指導。条桑育は、桑が生えた枝を根元から切ってそのまま与える方法で、摘み葉に比べて桑を与える回数が減り、省力化に大きな効果があった。
 「それまで母屋を蚕室にして、桑畑から摘んできた桑の葉をカイコに与えていた。しおれるのは早いし、農家は桑の葉を摘むのにくたびれて大変だった。それで条桑育に飛び付いた」
 技術員になって間もない時期で「条桑育を先頭を切って教えていった」という。「4、5年の間にかやぶき屋根の養蚕農家の家がどんどん新しくなっていった。通風の良い、鉄骨バラックを造り、農家は楽になった」
 条桑育で省力化が進んだことにより、養蚕回数も増えた。「摘み葉の時代は春蚕、初秋蚕、晩秋の年3回だったが、条桑育になってから夏蚕、晩々秋、初冬蚕が加わって年6回になった」
 その後、共同飼育所の指導、蚕病の防除に力を入れた。「カイコの飼育所が足りなくなり、69年まで共同飼育所は増える一方で、多野藤岡一円に83カ所できた。増設、増設でとても張り合いがあった」
 繭価格が良かった時代は「養蚕農家が飲みに出掛けることが多く、藤岡市のまちは潤った」。特に夏の藤岡まつりには農家が中心商店街に大勢繰り出し、「お金を使っていた」という。秋には農家の旅行が盛んに行われ、各地の温泉地もにぎわった。技術員には「ご招待」の声が掛かることが多かった。

(藤岡支局 石黒淳)