絹人往来

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絹笠様 豊蚕祈願で農家参詣 山田 道長さん(59) 高崎市上小塙町 掲載日:2007/2/2


多くの農家が豊蚕祈願をした絹笠様の石宮について語る山田さん
多くの農家が豊蚕祈願をした絹笠様の石宮について語る山田さん

 「春から夏の間の養蚕の合間の巳(み)の日。境内にある養蚕の神、絹笠様(きぬがささま)に農家が参詣した。夜祭で巳の晩とも呼ばれ、昔は若い男女の出会いの場にもなっていたので、より人気があったと聞いた」
 戦国時代から続く宮司の24代目。烏子稲荷(すないごいなり)神社を守る。高崎市史・民俗編に、同神社が養蚕信仰の代表として紹介されている。それによると、祭は5月の巳の日、信徒は豊蚕祈願でおこもりをしたという。おはらいやお札を受け、それを持ち帰って蚕棚に張ったとある。
 「お稲荷様とは宇迦之御霊命(うかのみたまのみこと)のこと。食物をつかさどる神であり、転じて農業の神となった。また、農作物は一粒の種から多くが収穫できることから商家では商売繁盛の神。本県など蚕の盛んな場所では養蚕と結び付いた」と言う。
 一帯は榛名山ろくの中でも特に養蚕が盛ん。「この辺りは青々とした桑畑が広がっていた。最近は野菜栽培に切り替わったが、畑といえば桑だけだった」という土地柄。戦前、長野村、六郷村の鎮守だった同神社には近郷近在からも多くの養蚕農家がお参りに来た。
 豊蚕祈願の最盛期は祖父、軍蔵さんが宮司だった昭和10(1935)年ごろ。
 「養蚕農家に頑張ってもらおうと、蚕の神様として力を入れ、農家にも広く知られた。お札も通常のご神札ではなく、シノの棒に紙垂(しで)を付けた特別なご幣束を配布した。作り方は伝わっておらず、分からない」
 「当時、正月七草の日のおさい銭は、少林山よりも多かった」というから、養蚕農家の多さと同神社の盛況ぶりがうかがえる。
 同神社は市指定史跡、上小塙稲荷山古墳の上に建立されている。18世紀に建立されたと伝わる本社殿も市文化財の指定を受けており、境内は歴史の古さをしのばせる。絹笠様は本殿に向かって左側の小さなほこらに、産泰様と並んでひっそりとたたずむ。石宮だが、ほぼ半分に割れている。養蚕の衰退とともに、いつの間にか欠けてしまったという。
 養蚕農家は姿を消しても、同神社は依然、多くの人たちの信仰のよりどころ。年間の行事を通じて地域の文化や伝統を伝える。絹笠様も地区の文化、歴史。
 「養蚕、絹産業を見直す機運もあり、もう一度、蚕の神様を盛り上げたい」

(高崎支社 大塚建志)