絹人往来

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機織り 朝食も食べずに作業 館野 初江さん(93) 板倉町海老瀬 掲載日:2007/05/25


93歳の館野さん。着ているのは自分で織った思い出の服だ
93歳の館野さん。着ているのは自分で織った思い出の服だ

 「とっちゃ、かっちゃ、くえ」
 孤独な作業になりがちな機織りに従事した板倉町の女性を和ませた言葉がある。機織りのリズムが元になったこの言葉が生まれた背景には、水害に悩まされた板倉の苦難の歴史がある。
 「毎日一生懸命機織りをしてお金をもらう(とっちゃ)。でも、水害で田畑をやられて仕方なくよそから米を買う(かっちゃ)。そしてそれを食べる(くえ)。このあたりの女性は強いからどんなにつらくてもそうやって笑い飛ばしてたんだよ」
 暑い日も寒い日も毎晩遅くまで機織りを続ける母、きえさんの背中を見て育った。そんな母を見て、自然と織り機に向かうようになったという。
 家の中で時間にとらわれずにできる機織りは、内職に適しており、板倉でも多くの女性が取り組んだ。しかし、いつでもできることから、「いつもやらねばならない」過酷な仕事にもなっていた。農作業の合間にやっていたはずの機織りが、いつしか仕事の中心となり、機織りの合間に農作業をするという位置付けになっていたという。
 「とにかく機織りに追われてね。やらないとお金にならないから、冬のどんな寒い時でも朝起きたらご飯も食べずにすぐに織り機に向かったもんだ。3年もすれば寿命が縮まる、ってみんなで言ってたよ。私は長生きしちゃったけどね」
 板倉周辺に出入りしていた佐野市の機屋から糸を受け取り、それを反物にして納めた。要求は厳しく、特に目の細かい冬用の反物を作るのは苦労した。
 「冬は寒いうえ、夏用の倍の労力がかかって、本当に大変だった。でも、うちなんか自宅でやれたからまだいい方。自前の織り機を持つ余裕のない家の娘は機織り奉公に出された。友達にも多くいて、中には行ったまま帰ってこない子もいたよ」
 佐野の業者が廃れた1950年代後半ごろまで、機織りをした。その後は、わら縄製の俵作りやナス、キュウリの栽培など、精力的に仕事に励み、夫とともに4人の子供を育て上げた。93歳になった今も、毎日2、3時間かけて、稲の苗に水やりをしている。
 「責任のある仕事をしないとぼけちゃうからさ。機織りで大変な思いをしたからどんな仕事でも耐えられるんだよ」

(館林支局 市来丈)