絹人往来

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飼育主任 養蚕で鍛えられた心 中村 住友さん(71) 太田市新田上田中町 掲載日:2006/11/24


かつて共同飼育所があった上田中会館で当時を振り返る中村さん
かつて共同飼育所があった上田中会館で当時を振り返る中村さん

 農家の長男として生まれた。健康が優れなかった父の清十郎さんに代わり、21歳から新田郡綿打村上田中(現太田市新田上田中町)の地区農事組合養蚕部長を務めた。25歳で共同稚蚕飼育所建設委員、26歳で飼育主任になった。
 「体力を使う野菜や米麦栽培は若い人の仕事。養蚕はお年寄りの仕事。部長になった当初、周りから『こんな若造で大丈夫か』と言われて、責任の重さを知った。そうこうするうちに飼育所が出来て主任になった。よし頑張ろうと思った」
 農家の大きな収入源だった養蚕。だが、農家によって飼育環境が異なり、よく育つ家と育たない家があった。共同飼育所は地区全体の収入を上げるために作られた。
 「みんなから大切な蚕を預かる仕事。重圧で胃が痛くなることもあった。不安をなくすため、とにかく勉強した。技術指導員には、くどいと思われるくらい質問した」
 熱心に働く姿が認められ、周囲が頼りにするようになった。
 「祖父くらいの年齢の人が私の指示に従って働いてくれる。信用されている感じがして張り合いが出た」
 「いつだったか、午前2時ごろ、お年寄りが寝ている私の枕元まで来て『蚕が眠りから覚めない。死んでいるかも』と起こされたことがある。慌てて飼育所に行ったら蚕が起きていた。笑い話だけど、当時はみなそれくらい熱心だった」
 頼られるほど信頼を裏切らないよう、一生懸命働いた。繁忙期は午前3時に就寝、午前5時には起きて、寝る間もなかった。
 「村の財産を預かる立場だからつらいとか言っていられない。繁忙期はどこの飼育所でも主任が泊まり込みで仕事をしていたんじゃないかな」
 しかし、養蚕は徐々に衰退し、工業が栄えた。中村さんも子供の成長に合わせて収入が必要になり、37歳から工場で働くことになった。
 「厳しい職場ですぐ辞める人が多かった。でもね、私は定年まで頑張れた。養蚕で鍛えられたからね」

(太田支社 松下恭己)