絹人往来

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技術員 指導で得た信頼は財産 大塚 茂さん(77) 高山村中山 掲載日:2006/12/20


元稚蚕飼育所に立つ大塚さん
元稚蚕飼育所に立つ大塚さん

 「蚕にかかわらなくなってもう長い時間が過ぎてしまった。多くの事を忘れてしまったよ」
 旧坂上小(現在、東吾妻町・坂上小)の高等科を卒業してから、養蚕技術員の講習を受け、養蚕の指導を始めた。
 「講習を受けた後、農林省に就職した。東京が赴任地だったが終戦直前とあって激しい空襲のため、京都府に転任。しばらくして前橋の試験場に『空き』ができて戻った。戦後まもない混乱のなかで出身地の坂上の農協から『お蚕さまの先生がいないから来てほしい』と依頼され、故郷に帰り指導するようになった」
 それからほぼ50年間、農協、養蚕連など所属する組織は変わったが東吾妻地区で養蚕指導一筋の人生を過ごした。
 「最初は蚕を飼っている農家を巡って新しい技術を指導するのが仕事だった。多いときは70軒ほど受け持ったこともある。朝5時から夜9時ごろまで農家を回った」
 良質の繭を生産するために努力を惜しまない毎日が続いた。
 「いい繭を作るには、飼育場所をもう少し広げろ、もっと桑をくれろ、温度を上げろなど講釈して回るんさ。温度を上げるのに炭を使っていたから、一酸化炭素などのガスや火の始末も大事だったね」
 やがて、養蚕も作業の効率化や省力化が求められるようになり、稚蚕共同飼育所をまかされることが多くなった。
 「飼育所で部屋を消毒するため、ホルマリンを壁に塗り、炭火で乾燥させているうちに意識が無くなり、気が付いたら畑に寝かされていた。だれかが気付いて助けてくれたんだ。本当に九死に一生を得るとはこのことだね」
 最後の仕事場になった高山村に落ち着き、村内5カ所の飼育所の管理と指導に当たった。
 「夢のようにわけない期間だったような気もする。養蚕は姿を消してしまったが、多くの農家の人とふれあい、お蚕さまのおかげでみんなから信用されたことがうれしい。昔のことだけど、まだ20歳前の駆け出しの自分に、おばあさんが『若い先生はなかなか面倒見がいい』なんて言ってくれたりして」

(中之条支局 湯浅博)