絹人往来

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養蚕道具 往時の思い出詰まる 高瀬喜久也さん(79) 板倉町飯野 掲載日:2007/4/6


思い出の詰まった道具を前にする高瀬さん
思い出の詰まった道具を前にする高瀬さん

 一面に広大な田畑が広がる板倉町。かつては桑畑があちこちにあり、養蚕が盛んに行われていた。
 16代続く町有数の旧家で、家には養蚕に使った道具が今も大切に保存されている。
 「桑の葉を入れた竹かごに、蚕の部屋を暖めた練炭。もう使うことのない道具だけど、捨てられないんだよ。つらかったことも楽しかったこともいっぱい詰まっているからね」
 敷地内には養蚕のために建てた2階建ての築85年の家があり、往時をしのばせる。「千円あれば一生暮らしていける」と言われていた時代に、祖父の吉蔵さんが200円の大金を投入して建てたものだ。
 吉蔵さんの後を継いだ父、安太郎さんがさらに規模を拡大した。人手が足りず、近所から人を雇うほどだった。10人兄弟の2男だったこともあり、誰よりも手伝いに駆り出されて、養蚕に汗を流した。
 「桑の葉を取ってきたり、蚕の面倒を見たりと一生懸命に養蚕をやった。忙しい時にはよく学校を休んで手伝わされたもんだ。出荷の後には、当時この辺じゃほとんどなかった大きな百円札を父親が誇らしげに見せてくれたことを今でも覚えてるよ」
 養蚕のために建てた自宅だけでは場所が足りなくなり、家の前には蚕を育てる小屋が立ち並んだ。1953年に明和町から嫁いだ妻のミエ子さん(76)は、その規模に驚いたという。
 「養蚕用の小屋が何棟もあった。実家でも養蚕をやってたけどこんなにやってなかったから本当に驚いた」
 盛んだった養蚕に戦後しばらくしてから転換期が訪れる。国が推進する食料増産と区画整理に伴う道路整備で、桑畑は次々に水田や畑、道路に姿を変えていった。
 「この辺は養蚕が廃れたのが早かった。当時養蚕はまだ悪くなってなかったから、続けられたとは思うけど、食料生産を強化しようという機運もあって仕方がなかった」
 かつて蚕のために設置した小屋は、今はニガウリを育てるビニールハウスになった。作業場となった木造の民家も夏までに取り壊すことが決まっている。
 「当時はまだ若く、養蚕の作業は本当に大変だった。あのころの経験があるから、どんなに大変な仕事でも大丈夫だと思えるんだよ」

(館林支局 市来丈)