絹人往来

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絹問屋 古い資料発掘 島崎 妙一さん(66) 藤岡市藤岡 掲載日:2008/03/14


養蚕の作業を描いた掛け軸の前で、会合記録などの資料を示しながら思いを語る島崎さん
養蚕の作業を描いた掛け軸の前で、会合記録などの資料を示しながら思いを語る島崎さん

 記録が残っている宝暦9(1959)年の2代目島崎宗右衛門から、店をたたんだ母親の代の1956年までの約200年間、生絹(きぎぬ)などを扱う絹問屋を藤岡市内に構え、絹文化を支えてきた。
 「仕事を退職し、家に残された昔の資料を調べる時間ができた。話は聞いたことはあったが、あらためて人々の生活を支えた絹のことを見つめ直す必要を感じた」
 島崎家は、江戸期に絹の売り買いの間に立って商談を取り持つ仲介業の絹宿をはじめた。年に1度開かれていた絹宿仲間の会合記録が残されている。「(3代目)利七宅に八つ時に集まるように示した連絡事項などが記されている。会合では運営上の問題や絹の品質問題などが話し合われたのではないか」と思いをはせる。
 明治期になると、島崎家は蚕種の販売や生絹の買い継ぎを営み、主に京都の問屋に卸していたほか、養蚕や蚕種製造、桑園の管理、ふるいや羽根ぼうきなどの道具の製造、販売も手掛けていた。近くに織物工場を建設して、機織りで絹織物を製造して販売するなど絹関係の総合商社として活躍した。
 自宅には、明治期に島崎家を描いた掛け軸が掛けられている。蚕の餌やりや繭の出荷作業、蚕種の商談など一連の養蚕の流れが分かる。「中心に猫が描かれており、蚕をネズミから守る重要な役割を果たしていたことがうかがえる」
 養蚕技術を普及させた教育組織「高山社」の分教場にもなっていた。初代校長の町田菊次郎の2女が祖母に当たり、町田家との関係も深い。
 「祖母の妹は高山社の技術と知識を携えて岩手県に指導に行き、地元の農家から養蚕がうまくいったと喜ばれたと言い伝えられている」
 高山社の功績を語り伝えるため17日、地元住民らが「高山社を考える会」を設立する。発起人の1人に名を連ね、養蚕振興に重要な役割を担った高山社の存在意義を地域に広めていく考えだ。
 「養蚕の知識や技術を全国に広め、人々を支えた高山社の精神は、人々の生活を豊かにするために地域社会に還元していこうという、見習わなければならない思想。これから発掘して伝えていくことが役割だと思う」

(藤岡支局 林哲也)