絹人往来

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繁忙期 人手確保“素人”も頼り 藤生 つねさん(79)太田市薮塚町 掲載日:2006/05/24


「昔はこの竹かごを編んでカイコを面倒みたもんだ」と話す藤生さん
「昔はこの竹かごを編んでカイコを面倒みたもんだ」と話す藤生さん

 旧薮塚本町役場の北側に点在する農家。2キロほど西の大原町にはかつて繭の出荷所があった。「お父(とう)がそこまでリヤカーを押して運んだよ」と藤生つねさん(79)。養蚕農家の一人娘。蚕をこよなく愛した夫の恵三さん(故人)とともに養蚕に励み、3人の子供を育てた。間断ない農作業。「畳の上には居られない」と教えられ家計を切り盛りしてきた。
 「父の代は養蚕も景気がよくてさあ、蚕の作業が一段落する10月末になると熱海や四国旅行に連れて行ってもらったんだ。農家の子なんぞは、めったなことで遊びに行けなかったからね」
 繁忙期になると人手不足から、笠懸周辺の人が集まり藤生家で生活を共にする日が続いた。家庭環境や生活習慣の違う“他人”に合わせる生活は苦痛だったという。
 「おかあちゃんは仕事に追いまくられ、私にとっては祖母が母親代わりだったね。(祖母の)実家が機屋だったから、帯解きの衣装に着替えまでつけてもらえたんで子供心にうれしかったねえ」
 1960年代初頭までは、繁忙期になると人手不足を補うため「伏島(現薮塚)温泉」周辺の芸者まで駆り出されたという。
 「素人の手伝いだから、お蚕こ上げのときなんかハシでつまむんだよ。もう、慌てて『違う、違う』って手で指導したもんさ。蚕をのせるワラの表裏を間違えて蚕が引っ掛かったりしたこともあったねえ」
 60年代後半から日本は好景気を迎え、親子3人はほとんど寝ずに作業をした。当時、周辺は林で桑畑が点在。毎朝5時前に桑取りに出かけ、家と畑を3往復したことも。
 薮塚で養蚕農家は現在7軒が残るだけ。繭を手に取りながら「今は、長男が後を継いでいる。竹かごの上に蚕を広げるしぐさなど、亡くなったおやじそっくり。昔はお父と竹を編んだこともあったね」。思い出の詰まった道具が息子の手でよみがえるさまに藤生さんの顔がほころんだ。

(太田支社 潮田尚志)