絹人往来

絹人往来

幡谷風穴 長老頼りに共同管理 千明 圭さん(83) 片品村幡谷 掲載日:2008/02/21


幡谷風穴の中で「岩の間から少しずつ空気が出ているんですよ」と説明する千明さん
幡谷風穴の中で「岩の間から少しずつ空気が出ているんですよ」と説明する千明さん

 片品村幡谷地区の山の斜面に、明治時代末期から蚕種の低温保存に使用していた幡谷(はたや)風穴(ふうけつ)が残されている。コンクリートで覆われ鍵が掛けられているため、訪れる人は関係者に限られているが、かつては利根沼田地域の養蚕農家から委託された蚕種がここで休眠され、ふ化のタイミングに合わせて農家に配布された。
 「真夏でも冷たい空気が出てくる。昔は奥で雨水が凍っていて、いわば天然の冷蔵庫。ここに保存した種を、掃き立ての時期に合わせて出してもらった」
 幡谷風穴は地域の養蚕農家が共同出資して管理運営しており、その中の1人として携わった。
 養蚕農家の2男に生まれ、尋常小学校を卒業後、電気関係の会社に就職した。戦争で兄が亡くなり、終戦を機に家業を継いだ。23歳の時だった。
 「最初は見よう見まね。基礎から父に学んだ」。しかし、父も1年後に他界。1人前になるまで失敗の連続だった。そんな時に、もっとも頼りになったのが同じ集落で養蚕を行うお年寄りだった。
 「風穴から出す時期や桑くれなど、基本的なことまでよく相談に行った。農業組合の指導もあったが、近所の農家同士の情報交換は欠かせなかった」
 稲作が難しい山あいの農家にとって、養蚕は貴重な現金収入の糧だったが、霜害による桑園(そうえん)被害などの不安要因は大きかった。そのため、養蚕に変わる新たな農作物の栽培にも取り組んだ。
 「最初はキャベツをやったが大赤字になった。キュウリやカボチャ、メロンなどの栽培に挑んだが、思うように育たなかった。試行錯誤の末、トマトの作柄は良く、好評だった」
 1980年ごろ、片品村に発生した霜害で桑園が全滅。養蚕継続のめどが立たなくなったため、思い切って養蚕から撤退。トマト栽培中心の農業へ転換した。
 「当時、養蚕で得えられた現金収入は生活を支えてくれたばかりか、安定した今の暮らしの土台を築いてくれた」

(尾瀬支局 霜村浩)