絹人往来

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お召し 流行の最先端を追求 吉田 邦雄さん(86) 桐生市東 掲載日:2006/09/19


「影縫お召し」を手に語る吉田さん
「影縫お召し」を手に語る吉田さん

 「とにかく、ほかより先により良い商品を市場に出す。それが桐生の機屋が持ち続けた根性だった」
 1936年に入社した「森秀織物」は、最盛期に社員120人、織機70台を擁した大機屋。ここで職人として技術を学んだ。織物の隆盛時代には会社の常務に抜てきされ、高級着物として一世を風靡(ふうび)した「お召し」作りの工程を取り仕切った。
 「お召しの良さを決めるポイントは色、柄、味の3つ。うちの製品はその3点を極めた究極のお召しだった」
 生糸の精練、染色、経糸の整経など、お召し作りのすべてを熟知している。常務として、問屋から仕事を受注し、デザインを話し合い、製作して納品するまで全工程にかかわった。現場の職人と何度も会議を重ね、時代に合ったお召しの流行をつくり上げた。入社当時から使い続けた手帳には、薬品や染色の配合を詳細に記したメモが残る。
 「西の西陣、東の桐生」。織物名産地とうたわれた桐生は60年代、「お召しブーム」に沸いた。東京の一流デパートのほとんどが、着物コーナーに自社製品を並べていたという。
 「女優の三崎千恵子さんがうちのお召しを着ていて、『色や柄が自分好みなんです』と褒めて下さったことがあった。お召しの種類やブランドは数多くあったが、うちが一番という気概を持っていた」
 ブームに合わせて、森秀織物も新製品の開発を進めた。特許を取った「影縫(かげぬい)お召し」は、全国的に流行するヒット商品となった。
 「影縫お召しは、生地に織り込んだラメで深みのある輝きを表現した。それがお召しの高級感を増して、人気を呼んだ。でも、競争が激しく、新商品も市場に出て3カ月たてば追いつかれてしまう」
 60歳で退職するまで、常に最先端のお召しを求め、ブームをつくってきたという商売人の自負がある。
 「お召しの流行は激しく、いつも新しいものを作ることに追われていた。特に織物全盛期は忙しく、目が回るほど。その時代に自分を支えたのは、お召しにかけた機屋のプライドだった」

(桐生支局 高野早紀)