絹人往来

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手機 伝統守り趣味で織る 尾沢 弘一さん(76) 桐生市相生町 掲載日:2007/05/26


妻、京子さん(右)のため、手機で着物を織る弘一さん(左)
妻、京子さん(右)のため、手機で着物を織る弘一さん(左)

 「女性の和服姿が好きだった。祖母や母が、毎朝さっと着物を着て、かっぽう着を羽織る姿が目に焼きついている。だから、妻に『おれが織るから、その着物を着てくれないか』と頼んだ」
 12年前に手織り機を購入し、手機(てばた)の着物作りを始めた。まずは、原糸を草木染することから。蚕のふんを使って独自に考案した「古久草(こくそう)染め」など、庭の草木や野菜などさまざまな染料を試した。
 「妻の年代に合う色合い、柄を常に考えている。染色から織りまで、すべてが手作業。経(たて)糸を仕上げる整経も頼める人がいないから、機械を作って自分でやっている」
 着物は「いつも和服を着ていたい」と言う妻、京子さん(70)のための一点物。織りためた反物は30点を超え、5月に桐生織物記念館で展示会を開いた。京子さんは「家で織ったものを自分で着るなんて、最高のぜいたく」と夫の織った着物をまとう喜びを語る。
 「和服姿の妻は良いですよ、大満足。着物に詳しいから、きれいに着こなしてくれる。『今度は着物で出掛ける機会をつくって』と催促されているけど」
 実家は祖父の代から機屋を営み、輸出用の広幅織物を扱っていた。戦前は、のこぎり屋根の工場5棟に織機50台を備えるなど、織物の最盛期に商売を広げた。
 「『ガチャ万』といって、織物産業の華やかな時代だった。家の2階は女性従業員の宿舎になっていて、いつも20、30人が働いていた。当時は珍しい手回しの蓄音機もあったくらいだから、うちも裕福なほうだった」
 18歳から手伝いとして工場に入り、30代で家業を継いだが、49歳で繊維産業に行き詰まりを感じて身を引いた。「手機は老後の楽しみ」と言いながらも、そこには元機屋のプライドがにじむ。
 「素材は正絹、そして先染め。これだけは、譲れないこだわり。桐生織物は、糸を染めてから織る『先染め』を基本に受け継がれてきた。機屋としてやってきたからには、例え趣味でも桐生の伝統を守りたい」

(桐生支局 高野早紀)