飼育所 労役で借り入れ返済 中村 隆夫さん(79) 藤岡市東平井 掲載日:2006/11/10
中村家の養蚕作業が紹介された本『近代群馬の蚕糸業』(高崎経済大学付属産業研究所編)を見ながら思い出を話す中村さん
「養蚕は、豊作で単価が高騰し、家計が緩んだのが一番の思い出だ。時には作柄が落ちることもあったが、情けないという落胆と同時に、『頑張るぞ』と奮起の材料にもなった」
農家の長男に生まれ、物心がついた時から家では養蚕、肉牛肥育、米麦の複合経営をしていた。その後、後を継ぎ、養蚕を主力にやってきた。
「短期で稼いでお金が入るのが一番の理由。うちは地域でも扱いが多い方で、年間の掃き立て量は300グラム程度、収入源の80%を占めた。最初は蚕種会社から蚕種を持ってきて、各農家で掃き立てた。昭和30年代に入ると、近くに稚蚕の共同飼育所ができた」
養蚕の中心となった稚蚕共同飼育所は、地域の組合が国の補助金を元に、借り入れと組合員の負担で設置した。当時、組合に入った農家は50軒程度だった。
「組合員は労役を義務化して借金を返済。私も組合員として労役に尽くした。労役には時間給を設定し、扱いの多い農家はそれに伴って長く労働するか、委託金を支払う仕組みだった。労働した人の時間を毎日チェックする会計の仕事が最も大変だった」
飼育所がスタートして2、3年経過すると、作業に遅れてくる人の遅刻が問題化した。
「飼育所で働くのはご婦人が中心。化粧して来る人やいろいろな事情で遅刻する人がいた。遅刻者がいると作業に支障が出ることから、ペナルティーを科すことにした。10分の遅刻で労働時間を1時間マイナスとする罰則。幸いわが家は遅刻を一度もしなかった」
会計を1976年から、所長を79年からそれぞれ3年間務めた。
「役員は飼育所の作業が終わると集まり、毎日一杯やる。これが楽しみだった。当直は一度帰宅し、風呂に入ってから加わった。さかなは主に安い缶詰類だった」
養蚕は春蚕、初秋蚕、晩秋蚕の年3回。作業は早朝から夜まで続く重労働だった。それに肉牛肥育、米麦の仕事も重なる。長男の大学進学時の出費や毎月の仕送りなど家計が苦しい時期もあったが、乗り越えた。
「若さで頑張り、94年まで続けられたよ」