蚕業普及 最盛期の農家支える 星野 晋作さん(77) 伊勢崎市境女塚 掲載日:2006/12/12
使い古した養蚕研修テキストを今も大事に保管している
県蚕業試験場に就職後、県内の指導所を渡り歩き、養蚕の技術伝承に携わった。桑の栽培法から蚕の飼育法、蚕の病気対策まであらゆる研究、普及活動に取り組んだ。
「養蚕農家を一戸一戸回るだけでなく、地区別の座談会も各地で開いた。農家を回る手段は自転車が主だった。その後、バイク、自動車へと変化したが、自転車を使っていた当時は、地図を持たずに県内どこへでも行けたよ」
やがて、県蚕業試験場が稚蚕の共同飼育法を確立。土室育や電床育など小さい飼育室を一単位とした大量飼育方式が広まったことで蚕作の安定や労働力の削減につながり、蚕の生産性は大幅にアップした。
「農家の戸別訪問をする必要がなくなり、共同飼育法は技術の普及にも大きな効果があった。しかしその分、農家に配蚕することへの責任や重圧は大きかった」
少しの天候の変化で成育状態が左右されるほど、蚕はとても“繊細”だった。
「寝ても覚めても頭は蚕の健康のことばかり。病気が出ていないかチェックするほか、温度や湿度の調整管理にも一切手を抜かなかった。桑もおいしいものをやりたいと、霜よけには特に気を配った。正月以外は休みもなかったよ」
1965年、県内の養蚕農家数と桑園(そうえん)面積は過去最高を記録。それぞれ51万4千戸、16万4千ヘクタールにも上った。養蚕の最盛期だった。
「休日家にいなくても妻は不満も言わずに見守ってくれた。輸出産業の中心を担い、群馬の産業を支え続けた養蚕技術の普及には責任もあったが、やればやっただけ結果が出たから張り合いもあった」
人工飼料の開発も活動の後押しになった。
「群馬の人工飼料は栄養価が高く、性能が良かった。蚕の病気を抑えるだけでなく、成育も十分に助けた」
右も左もわからないまま飛び込んだ養蚕の世界。養蚕の技術を一人でも多くの農家に伝え、養蚕主業農家を育成しようと、がむしゃらに働いた。
「今でも群馬の養蚕は全国一だったと思う。自分たちの普及活動が農家の生活だけでなく、養蚕の最盛期を支えたことに誇りを持っている」