技術指導員 農家の収入増へ努力 塙 四郎さん(73) 太田市新野町 掲載日:2006/10/4
自宅で当時を振り返る塙さん
山田郡毛里田村(現太田市毛里田地区)の農家の四男として生まれ、子供のころから養蚕に親しんだ。自然な流れで1954年、山田桐生養蚕農業協同組合連合会に就職し、技術指導員として働いた。
「何か専門的な知識を身に付けられる仕事をしたかった。周りの家はほとんど養蚕農家。だったら技術指導員をやろうと思った」
養蚕が農家の主な収入源だった当時、技術指導員は責任が重い仕事だったが、やりがいもあった。
「指導員になりたてのころは春(5月)と初秋(7月)、晩秋(9月)の3回、養蚕をするのが普通だった。ただ、『晩秋とみそ汁はあたらない』なんてことわざがあるくらい晩秋の飼育は難しかった」
各農家によって温度や湿度など環境条件が違うため、県養蚕試験場から送られてくる飼育に適した環境データを微調整しながら晩秋でもうまく育つように指導を行った。
「農家にとって生活にかかわる養蚕の指導だから重圧はあったけど、助言を求められるたびに自分は必要とされていると実感できた。張り合いがあった」
「ただ当時は、蚕の飼育技術が発展途上だったので、よくデータが変わった。農家の人も指導内容が3年ぐらいで変わってしまって大変だったと思う」
年々、養蚕飼育の技術は発達していった。最大1年に6回養蚕が出来るようになり、飼育の難しい稚蚕をみんなで育てる共同飼育所も各地に出来た。しかし、指導員にはまた新たな課題が登場した。
「60年代は工業など第2次産業の伸びがすごかった。サラリーマンと比べて所得に差が出てきた。なんとか養蚕農家の所得を上げようと頑張った」
「繭の値段が大幅に上がることはないんで、諸経費の節減と手間の省略に知恵を絞った。桑から人工飼料に餌を変えた時期は県内でも早いほうだったと思う」
その後も課題は続いたが、乗り越えようと努力を続けた。
「指導員は農家から必要とされ、常に何かを追及し続けるやりがいのある仕事だった」