蚕具 売れた竹かご、蚕座紙 山田久太郎さん(80) 館林市赤生田本町 掲載日:2007/1/17
「竹かごや蚕座紙がよく売れた」と話す山田さん
養蚕ではさまざまな道具が活躍する。鳥の羽根で作った羽根ほうき、竹を編んで作った四角いかご、竹かごの上に敷く蚕座紙(さんざし)―。養蚕農具販売店で生まれた。店で販売していたこれらの道具の役割を今でもよく覚えている。
「稚蚕を手で動かそうとするとつぶしちゃうので、鳥の羽根でなでるように動かした。竹かごは蚕を飼育するところで、数段ある棚に置いて使った。竹かごの上に敷く蚕座紙はざらざらしていてピンク色だった。今思うと、白い紙だと蚕が目立たなかったからかもしれない」
店は父の政吉さんが1921年に館林町塚場町(現館林市西本町)に開いた。取り扱っていた道具は多岐にわたる。桑の葉を摘み取るときに人さし指にはめる鉄製の指輪や、わら蔟(まぶし)を作るための織り機、繭玉の表面をきれいにする毛羽取り機は手回し式と足踏み式の二種類あった。政吉さんの生家が足利郡久野村(現足利市)で一、二を争う大きな養蚕農家だったことから、道具が実際に活躍する様子を目にしてきた。
特に店がにぎわったのは1930年代。まだ子供だったが、店の前にトラックで買い付けに来た人たちの印象が鮮明だ。
「トラックは茨城県から来ていて、多い年は3台くらい来た。竹かごは1梱包(こんぽう)10枚で売っていた。トラック1台に竹かごを700―800枚積んでいたと思う。蚕座紙も年に2、3回は取り換える必要があったので、よく売れた」
店に買いに来る客だけでなく、農家のところへ道具を届けることも多かった。そんなときはリヤカーに積んで運んだ。
戦時中の食糧難などから、館林周辺では早々と養蚕から米作りに転向した農家が多い。
家は農機具店となり、養蚕道具は姿を消した。養蚕に接した期間は長くはなかったが、養蚕農家との交流でその大変さ、大切さは肌で感じていた。
「浅間山が噴火したときの降灰と長雨は、桑の葉が駄目になるので特に怖かった。みんな御蚕様(おこさま)と呼んで一生懸命に育てていた」