条桑小屋 養蚕の証し残したい 大塚 史朗さん(72) 吉岡町大久保 掲載日:2008/05/10
鉄骨の梁など条桑小屋の面影を
残す書斎に立つ大塚さん
毎月第4土曜日。自宅別棟で、自身が代表を務める群馬詩人会議の会合を開いている。
建物は2階建てで、1階が会合をする書斎、2階には回転まぶしや糸車などの古い養蚕用具が並ぶ。養蚕をやめ、処分しようとした周囲の農家から譲り受けたものだ。
「元は条桑小屋だった。1973年に上蔟(じょうぞく)などが一括してできるように2階建てにした。そのころから、年に1・5トンぐらい繭を出せるようになった」
実家が養蚕農家で、高校を卒業するのと同時に農業に従事し、55年目になる。
「子供のころから本が好きだった。21歳の時に自宅を火災で焼失、ぼう然とするなかで父から『塞翁(さいおう)が馬』の話を聞いた。知らない話なので調べるうちに、中国の歴史に興味を持つようになった」
農業の合間に三国志などを読みふけり、当時の農家の苦労などに共感した。そうした影響もあってか、身近な労働の場面を元に詩を書くようになった。
「会に入って人に作品を見せるようになったのは40歳ごろから。そのころは現役の養蚕農家だったので、夏場は生い茂った桑のにおいにむせながら桑摘みをしている、といった風景描写が多かった」
当時結婚した次女に贈った自作の詩集「萩の花」にも、妻が養蚕用具を川に洗いに行く場面や、「夏蚕の桑盛り」などの季語が出てくる。
「詩では養蚕について苦しそうに描いたこともあったが、繭の値が下がった時期でも養蚕をつらいと思ったことは少ない。むしろ、一生懸命育てた蚕が成長する姿を見るのはとても楽しかった。それが支えだった」
養蚕は15年前にやめた。条桑小屋はしばらく空き家にしていたが、4年前に改装した。小屋の面影を残す鉄骨の梁(はり)はむき出しのままになっている。
「今の生活に密着した作品をモットーにしているので、自分ではもう養蚕の詩は作らない。でも、この世から養蚕の証しが消えていってしまうのはもったいない。何らかの形で残していけたらと思う」